『鎌倉時代編4 蒙古襲来と幕府の滅亡』

【1】 先土器時代 (P.1)(P.41〜42)


 教科書では、途中に鎌倉文化が入りますが、幕府滅亡までの政治史を、執権ごとにまとめてみました。

1 元の中国統一
 かつてタモリの『ボキャブラ天国』という番組で、槙原敬之の「もう恋なんてしないなんて〜♪」という曲に合わせて、「蒙古を元にしたのなんて〜、フビライよ絶対〜♪」というのがあった。全く点は入らず『ポイ』となったが、なぜか覚えてしまった。
 そのフビライの時、蒙古は国号を元とし、都を「大いなる都」(大都)→現在の北京とした。これ以降、中国の都は基本的に北京である。

2 8代執権北条時宗の時代
 かつて人気のあった某狂言師が、NHKの大河ドラマで演じた代執権北条時宗の時、が攻めてきた。
 
 そのフビライによる二度の日本侵攻を元寇という。流れは次の通りである。
(1) 蒙古襲来以前:「高麗、蒙古に服属」→「蒙古の対日国書(史料)」→「高麗の三別抄滅亡(三別抄は高麗のレジスタンス運動)=元による高麗の征服事業完成
            ↓
(2) 1回目の蒙古襲来:「文永の役1274=日本軍苦戦 ← 蒙古軍=集団戦法・てつはう(火薬)・毒矢
  (従来、「日本軍は騎馬武者による一騎打ち(個人戦法)であったため、集団戦法の前に苦戦」と言われていたが、否定されつつある)
            ↓
(3) 1回目(文永の役)と2回目(弘安の役)の間:「異国警固番役字に注意!)制度化」「博多湾に石塁(防塁、石築地):非御家人も動員」「南宋滅亡
            ↓
(4) 2回目の蒙古襲来:「弘安の役1281)」=東路軍(元・高麗軍)・江南軍(南宋軍)の2ルートからの大軍:ルートをイメージ→暴風雨で撤退。

 つまり、高麗の抵抗を抑え込んで→1回ジャブを出してきて→日本が防衛力整備に慌てている間に、全力で南宋を潰しておいて→2回目は服属した南宋の軍も合わせて大まじめで攻めてきたけど→暴風雨で撤退した。

 肥後の御家人竹崎季長が、自分の活躍を描かせた『蒙古襲来絵巻』は、絵を見て判断出来ること。
 ここで受験生が気をつけなければならないことは、元寇の影響である。「貨幣経済の進展」と「分割相続による所領の細分化」によって窮乏していた御家人が、借金までして頑張ったのに、幕府は満足に恩賞を出すことが出来ず、多くの御家人の生活はますます苦しくなったが、反対に幕府(北条氏)の権力は強化された
 例えば、鎮西奉行改め鎮西探題に、一門を送り込み、非常事態によって非御家人をも動員する権限を獲得し、ついには全国の守護職の半数以上が北条氏となった。
 つまり「元寇によって北条氏(幕府)の政治基盤(権力)は弱体化した」という正誤問題の答は、言うまでもなく×である。

 <蒙古襲来時の日本軍の戦い方 −一騎打ち戦ではなかった−>

 従来、「東大チャート 1993年度第2問」の解説でも書いているとおり、
 「鎌倉武士の蒙古襲来への参戦は、奉公として軍役負担に応じたのであり、その見返りとして恩賞を得るためには軍功を明らかにする必要があった。そのため元軍は集団戦術、日本軍は一騎打ちで戦ったのである」
と言われてきた。2018年現在、山川『詳説日本史B』でもそのように記されている。だから受験で問われたら、この文章は〇とせざるを得ないだろう。
 しかし論拠の一つとなっている『八幡愚童訓』は後世に八幡神の神徳を主張するために書かれた書物であり、最近の研究では、実際は日本側も集団戦術を取っていたという意見が出されている。
 事実、『蒙古襲来絵巻』には、先駆けを行う竹崎季長の後から、後続部隊が集団で突進する様子が描かれている。さらにそれ以前でも、武士が一騎打ちをすることは、特別な場合を除いてほとんどなかったという話もある。


 そのためか、2018年現在、「一騎打ち戦を主とする日本軍は苦戦におちいった」と記している主な教科書は、山川の『詳説日本史B』のみであり、実教『日本史B』や東京書籍『新選日本史B』ばかりか、同じ山川の『高校日本史B』『新日本史B』でも、元軍が「集団戦法を得意としたこと」や「火器を用いたこと」は記していても、日本軍が一騎打ちであったとは書かれていない

 なお、竹崎季長が『蒙古襲来絵巻』を描かせた理由であるが、恩賞を得るためではない
 そもそも、『蒙古襲来絵巻』には、幕府の御恩奉行であった安達泰盛に直談判して、破格の恩賞(肥後国海東郷の地頭職と馬)を得たことが描かれている。そして奥書にも「安達泰盛がこのようなことを決めてくださったのだ。直接に御下文を賜り、御馬を賜ったのはただ季長一人である。武士の面目を施す事である。これからも、また君の御大事があった時は、一番に先駆けをしなければならない。これを今日の決意とする」とまで記されている。

    
   竹崎季長が馬を賜る場面

 では、何のために描かせたのかということになるが、これは諸説ある。その中に、恩賞として得た海東郷の所領を守るためという説がある。
 季長が得た海東郷は本来、甲佐社の神領であった。安達泰盛によって所領を得た季長ではあったが、その安達泰盛は蒙古襲来後、公家や武家の所有となっていた元神領を否定して、本来の神領に戻すという、急進的な施策を行っており、平禅門の乱で旧泰盛派が復権し、北条貞時による専制が強まると、季長にとっては、獲得した海東郷を回収される恐れが生じた。甲佐社は阿蘇社の末社である。そのため竹崎季長は、所領となった海東郷にある同じく阿蘇社の末社であった海東社に所領の一部を寄進したりしている。実は、『蒙古襲来絵巻』には奥書が二つあり、その中では、季長と甲佐社との強い関係が主張されている。このことから、海東社への寄進などを正当化して、海東郷の所領を守ろうとしたのではないかという説である。


3 9代執権北条貞時の時
 9
代執権北条貞時の時、「北条氏の嫡流」である得宗家の勢力は強大となった。いわゆる得宗専制体制である。
 その例として頻出するのが、「執権政治」の項でも述べた霜月騒動(1285)である。滅亡した有力御家人が安達泰盛であることを悩む受験生は少ないが、勝った側の平頼綱の肩書「内管領」と「御内人」の違いで戸惑う受験生が多い。
 入試では次のような形の(空欄補充)が一般的である。「北条氏の(家督)を継ぐ(得宗)の家臣団である(御内人)・・・」あるいは「得宗の家臣団(←これが御内人)の代表である(内管領)・・・」
 「宝治合戦+三浦泰村+5代北条時頼←→霜月騒動+安達泰盛+9代北条貞時」の区別は頻出する。
 この平頼綱も1293年の平禅門の乱で滅亡する。

 そして9代貞時のもう一つのイベントは永仁の徳政令であるが、これは中学校の教科書にも載っている。「ヒニクナ(1297)結果の徳政令」との語呂合わせがある通り、経済を混乱させて失敗に終わり、翌年には撤回された。目的と内容は、史料とともに正確に押さえなければならない。
○ 目的:窮乏する御家人の救済策
 (←分割相続の繰り返しによる所領の細分化+貨幣経済の発展にまきこまれた+蒙古襲来の負担増)
○ 内容:御家人の所領の質入れ・売買禁止
      御家人同士で売却された所領で20カ年未満のものは無償返却
      非御家人や凡下の輩(一般庶民=借上)に売却したものは年期に関わらず無償返却
      御家人が関係する訴訟の不受理

 なお、正誤問題の場合は「成果は上がらず、翌年撤回された」の部分ばポイントとなる。

4 14代執権北条高時の時代
 14代執権北条高時は、かつてこれまた大河ドラマ(「太平記」)で片岡鶴太郎が好演した。この役で彼は俳優としての地位を確立したとも言えるだろう。
 その中で、母親から「しっかりせよ」と厳しく言われた高時が、鼓を打ちながら「わしは名執権と言われた父上(貞時)に頭が上がらず、母上に頭が上がらず、わしが死んでも泣いてくれるのは、田楽一座と百匹」と泣くシーンがあった。まさに「田楽闘犬」、そして内管領長崎高資が、彼のキーワードとなる。(エピソード「暗君の哀しみー北条高時ー」へ

 そしてこの時代は、何といっても後醍醐天皇の登場である。彼が2つに分かれていた皇統の内、大覚寺統出身であることは最重要!後醍醐が後、吉野に逃れて南朝をたてることは、周知の通りなので、この「大覚寺統南朝」、反対の「持明院統北朝」となる。
 紛らわしい所は、天皇が隠岐に流されたのは「正中の変(1324)」ではなく、次の「元弘の変(1331)」でのことであり、この時、持明院統から光厳天皇が即位した。後醍醐は大覚寺統だから、次が持明院統になるのは、「2つの皇統から交替で即位する」という両統迭立が行われていたから、当然と言える。なお、かつては1317年の「文保の和談」で合意が形成されたとされていたが、近年では合意はなされていないという意見が主流となっており、「文保の和談」という語句を掲載していない教科書が多い。

 呼応する武将たちの挙兵では、赤坂城や千早城で石やうんこを投げて奮戦した楠木正成は、河内の「悪党」であって、応仁の乱の時出てくる「足軽」との正誤問題に注意。後醍醐は50人を越える子どもがいたと言われるが、倒幕関係で出てくるのは護良親王のみである。
 鎌倉幕府は、1333年に滅亡するが、鎌倉を攻略したのは新田義貞。足利高氏(のちの尊氏)は六波羅探題を攻略した。


(2012.1.1 蒙古襲来の流れの部分を整理)
(2013.1.17 蒙古軍と日本軍の戦法について追記)
(2018.3.3 蒙古襲来時の日本軍の戦い方についてのコーナーを設けました)
(2019.5.25 文保の和談が教科書記述からほぼ消えていることを追記)

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