(P21〜24)
1 政治の展開
(1)桓武天皇の時代
桓武天皇と言えば無条件で平安京遷都だが、まずはその前に行われた長岡京遷都からおさえなくてはならない。
@長岡京への遷都は784年、平安京遷都のきっかり10年前ある。ちなみに藤原京遷都はきっかり100年前の694年。
長岡京を捨てた原因は、受験では責任者(造宮長官)であった「藤原種継(式家)の暗殺事件」で構わない。正確には種継暗殺事件の首謀者とされたことに抗議して、餓死した皇太弟(天皇の弟で次の天皇となるはずだった)の早良親王の怨霊を恐れたためであるが。(一体平安時代って教科書に登場する人物だけで、一体何人怨霊になってるんだろうね。平将門、菅原道真、崇徳上皇・・・。)
A長岡京を捨てて平安京への遷都することを建議したのが、あの宇佐八幡宮神託事件の和気清麻呂である。この平安京も平城京と同じように朱雀大路を挟んで右京と左京との分けられていたが、右京は早くに衰退してしまう。これを伺わせる史料『池亭記』(慶滋保胤)は難問(古文でやったかな?)
B東北経営のために設けられた鎮守府は、北上川を遡った位置に胆沢城(802)が築城されるとともに多賀城から移される。基本は「多賀城は奈良時代、胆沢城は平安時代」である。胆沢城に鎮守府を移した征夷大将軍の坂上田村麻呂と彼が帰順させた(結局殺されることになったが)蝦夷の族長阿弖流為は中学の教科書レベル。なお、胆沢城設置の翌年(803)には、さらに北上川を遡った位置に志波城が築城されるが、鎮守府は胆沢城のままである。
(日本史上最初の征夷大将軍は坂上田村麻呂ではないが、受験においては田村麻呂以前に補任された者はでないと考えてよい。)
なお、桓武天皇の前の光仁天皇のときに伊治呰麻呂の乱が起こり、一時多賀城が落とされたことも問われることがある。この後も東北では蝦夷の激しい抵抗が続き、桓武天皇は東北経営に力を入れることとなった。
センター試験レベルなら、ここまでで良いと思う。論述のある人のために、もう少し詳しく解説しておく。
東北経営は、乙巳の変の直後、孝徳天皇の時代に佐渡島の対岸あたりに「渟足・磐舟の柵」が設けられた。そして奈良時代の724年には「多賀城」設置。このように東北経営のために設けられた行政的な機能をもつ施設を城柵という。東北経営は、この城柵の周辺に関東地方などから農民(柵戸という)を移住させて進められた。この蝦夷の地域への支配浸透に反旗を翻したのが伊治呰麻呂である。多賀城を落としいれる大規模な反乱に発展し、30年以上続いた。この戦いにケリをつけたのが、坂上田村麻呂である。
C徳政相論は史料も確認しなくてはならない。藤原試k(式家)が「今民衆の苦しむ理由は軍事と造作である」として廃止を主張したが、これらはそれぞれ何かという問題が出る。(軍事=対蝦夷戦争・蝦夷征討・東北経営でも可。造作=平安京造営)
さらに、この後、現実にはどうなったかという正誤問題もあった。盲点だが、嵯峨天皇の時に文室綿麻呂が東北遠征をしていることを考えれば造作は中止されたが、軍事は続行されたことがわかる。
D令制の改革について。
勘解由使(かげゆし)と健児(こんでい)は頻出。
○勘解由使=国司は交代の際に、後任者が前任者に仕事がきちんと行われていたという証明書を渡す。これを解由状という。中央にいて、解由状を審査することによって、国司の不正を監視するために設けられたのが勘解由使である。(ドラマの水戸黄門みたいに全国を不正を糺して回ったわけではない。)
○健児=それまでの軍団の制度が機能しなくなったため、郡司の子弟から採用した。ただし全国の軍団を廃止したのではない。東北地方が残されたのは、伊治呰麻呂の乱などへの見せしめのためである。
<桓武天皇の政治改革の一貫性> 教科書(『詳説日本史』(山川))には、桓武天皇について最初にこう書かれている。 「桓武天皇は、長い在位期間のうちに天皇の権威を確立し、積極的に政治改革を進めた。国家財政悪化の原因となった地方政治を改革することに力を入れ、増えていた定員外の国司や郡司を廃止し、また勘解由使を設けて、国司の交替に際する事務の引継ぎをきびしく監督させた」 この勘解由使は頻出するし、受験生もしっかり覚えようとする。しかし、これと、 @ 班田制の励行に努め、班田収授を6年1班から12年班にした A 一部の地域を除いて諸国の軍団を廃止して、健児の制を設けた B 雑徭を60日から30日に半減 C 公出挙の利率を5割から3割に軽減 は、一体となった改革であった。 8世紀末には、状況は@のように6年ごとの班給を12年1班に改めて励行を図らなければならないほど、戸籍作成や班田収授の遅れは深刻化していた。 国家財政の財源は、戸籍・計帳に基づく調・庸である。しかし8世紀の末には、調・庸の品質の悪化や滞納が多くなり、さらに偽籍が増えるようになった。もちろん偽籍が横行した原因には、農民が偽りの申告をすることもあったが、戸籍作成の責任者である国司の職務怠慢や未収・横領を隠蔽するために偽籍に関与することもあったのだ。その国司への監査を強化したのが勘解由使である。 その一方で、調・庸を納める良民の負担を軽減したのが、A〜Cの取組である。 それでも、対蝦夷戦争(軍事)と平安京造営(造作)という2大事業は、公民にとって大きな負担になっていた。そのため桓武天皇は晩年に藤原緒嗣の提案に従ってこの2大事業を停止したのである(徳政相論)。 |
E政教分離政策
政治と仏教の癒着による混乱(道鏡に代表される)の再発を防ぐため、平城京から平安京への寺院の移転を禁止するとともに、最澄の天台宗と空海の真言宗を保護して、仏教界の改革を刷新を図った。
(2)平城天皇の時代
薬子の変で登場する平城上皇も天皇時代は、積極的に律令制度の再建に努めた。
(3)嵯峨天皇の時代
@平城太上天皇の変(810)(薬子の変)が起こる。薬子の変の内容は、エピソード「藤原氏、受験には出ない人物像」を参照。
(かつては、薬子という稀代の悪女が起こした事件だと捉えられていたが、これは太上天皇が天皇と同等の権力を持つという制度上の問題がもたらした事件だと考えられるようになり、平城太上天皇の変と呼ばれることが多くなった)
A平城太上天皇の変に際して、藤原冬嗣が蔵人頭に任命される。これが藤原北家が台頭する契機となる。(薬子とその兄で射殺される仲成は式家。式家が没落することになる。ここまで奈良時代から活躍した藤原氏は南家の仲麻呂を除いて、反乱をおこした広嗣にいたるまで式家)
B検非違使(=京の治安維持)が設置される。正確な設置年代は不詳。
この蔵人頭や検非違使、そして先にでた征夷大将軍や勘解由使などのように、養老令に規定されていない新しい役職を、令外官と言う。令外官を設けた天皇は「蔵人頭・検非違使=嵯峨天皇」と「桓武天皇=勘解由使」だけ覚えておけば、それ意外は消去法で対応できる。(「桓武の勘解由使、蔵人のさけび!」→蔵人頭=嵯峨=検非違使)
C格式について。「格は律令の補足・改正法」、「式は律令の施行細則」は基本。書けるように。奈良時代に出た三世一身法が、墾田永年私財法の史料中で「養老七年の格」とあるのは有名。この格と式をまとめて編纂したものが、嵯峨天皇の時の「弘仁格式」を含む三代格式である。嵯峨(=弘仁)・清和(=貞観)・醍醐(=延喜)の三代の格式という意味で、醍醐天皇の延喜式が最も整っている。
また9世紀に編纂された、養老令の官撰注釈書である「令義解」と、私撰注釈書である「令集解」も基本。令義解を編纂した清原夏野は、実は810年に任命された蔵人の一人だった。令集解の編者惟宗直本(これむねのなおもと)は難問。
D班田収授が困難になっていたことは、桓武天皇の時、班年が6年1班から12年1班に改められたことからもうかがえるが、その一方で政府も直営田の経営を試みた。その代表が嵯峨天皇の時「大宰府管内に設けられた公営田」(823年)と「畿内=官田」(陽成天皇の879年)正確な年代は覚えなくてよいが、公営田が9世紀前半、官田は後半ぐらいは覚えておいて欲しい。
(2005.10.22更新)
(2010.3.2改訂)
(2013.1.1追記)
(2021.2.2「桓武天皇の政治改革の一貫性」を追記)