発展 『律令国家の兵役は、なぜ3〜4人に1人なのか』

    ー東大入試問題に学ぶ 7ー
 (1999年度第1問)


 「兵役は、成年男子3〜4人に1人の割で徴発され、兵士は諸国の軍団で訓練を受けた。一部は宮城の警備にあたる衛士となったり、九州の沿岸を守る防人となった。兵士の武器や食料も自弁が原則であり、家族内の有力な労働者をとられることから、民衆には大きな負担であった。」(山川『詳説日本史』

 「兵士役も民衆の負担で、成年男子3人ごとに1人が、兵士として徴発され、諸国の軍団に配属された。はたらき手をとられるうえに武器や食料は自己負担であったので、兵士を課されるのは、その戸にとって痛手であった。兵士たちは、平時は交替で訓練を受けるが、一部の者は都へいって1年間勤務する衛士や、3年間北九州の沿岸を守る防人の任にあてられた。」(実教『日本史B』

 授業では「律令制の兵役は、正丁の3〜4人に1人が諸国の軍団にとられる。そのうちの一部が衛士や防人になった。衛士の任期は1年、防人は3年。・・・」と教える。そして『万葉集』の「防人の歌」などを紹介して終わることが多いのではないか。律令の内容は「授業のリズム」が作りにくく、ぼくにとってはエピソードを混ぜてある程度「山」を構成できる文化史よりも、生徒を引き付けにくい。

 しかし、なんで3〜4人に1人なのか。適当? そんなはずはない。
 あまりに素朴で逆に考えたことがないのではないか。
 それを正面から扱った問題が、東京大学の1999年度の第1問である。
 

<東京大学1999年度第1問>

 次の文章を読み、下記の設問に答えよ。

 「天武天皇が、13年(684年)閏4月の詔で『政ノ要ハ軍事ナリ』とのべたとき、かれは国家について一つの真実を語ったのである。(中略)「政ノ要ハ軍事ナリ」の原則には、天武の個人的経験を越えた古代の国際的経験が集約されているとみるべきであろう。」

 これは、古代国家の形成について、ある著名な歴史家が述べたものである。軍事力の建設の視点からみると、律令国家の支配の仕組みや、正丁3〜4人を標準として1戸を編成したことの意味がわかりやすい。


 設問

 7世紀後半の戸籍作成の進展と、律令国家の軍事体制の特色について、両者の関連、および背景となった「天武の個人的経験」「古代の国際的経験」をふまえて、7行以内で説明せよ。


 おそらく試験会場でこの問題を目にした受験生のほとんどが、考えたこともなかったと思う。しかし、

 
東大の問題は、教科書に書いてないことはでない。そして与えられた資料に過不足がなく、資料をきちんと読み取る力があれば、必ず答えを導ける。

 そして

 
歴史の本質を突いている!

 「悔しいけどさすが東大」とまたしても思った。


 <考え方>
 問われているのは、
ア 7世紀後半の戸籍作成の進展について書く。
イ 律令国家の軍事体制の特色について書く。
ウ 戸籍作成と軍事体制との関連をふまえて書く。
エ 天武天皇の個人的経験をふまえて書く。
オ 古代の国際的経験をふまえて書く。
カ 7行(210字)で書く。
 
ことである。

アについて。
 7世紀後半の戸籍だから、
@ 庚午年籍(670)=天智天皇
A 庚寅年籍(690)=持統天皇

である。戸籍について教科書(山川『詳説日本史』)に「(持統天皇は庚寅年籍を作成して)
民衆の把握を進めた。」とあるとおり、その目的が民衆の把握であることはいうまでもない。

イについて。
 これは、教科書にあるように「
戸籍に基づいて民衆の成年男子の3〜4人に1人が徴発されて兵士となる。」でよい。
 衛士と防人をどうするのか悩むかもしれないが、これは武器・食料が自弁であったことと同様に「兵役の内容」であり、ぼくは不必要だと考える。もし書くとするならば、「宮城の警備や国防の最前線まで民衆から徴発した兵士に担わせた。」として、軍事力の中心となる兵士が民衆からの徴発であったことを強調するぐらいであろう。

ウは焦点となるので後に回す。

エとオについて。
 問題文に「天武天皇の「政ノ要ハ軍事ナリ」の原則」(政治の中心は軍事力)」「軍事力の建設の視点という言葉があることから、これは天武天皇の軍事的経験を指している。となると、

エは、
壬申の乱に勝利して権力を握ったこと。
オは、
白村江の戦いの敗北

だと判断できる。

 さらに、エについては、「(壬申の)乱の結果、近江朝廷側についた有力中央豪族が没落し、
強大な権力を手にした天武天皇を中心に中央集権的国家体制の形成が進んだ。天武天皇は、675年に豪族領有民をやめ〜官僚制の形成を進めた。」(山川『詳説日本史』)とあるように、

壬申の乱に勝利して強大な権力を握った天武天皇は、豪族を介さず直接民衆を徴発する中央集権的な軍事体制の形成を進めた

ことに気付きたい。

 そしてオは、イにあるように「
律令国家の軍事体制の特色」と結びつく「軍事に関わる天武の国際的経験」なので、ただ戦いに敗北したことだけではなく、

その後の東アジアの国際的緊張と、天智天皇がそれをもとに防衛政策を中心として中央集権的な律令国家の建設を進めたこと

をしっかりと意識したい。これは教科書に

「その後、新羅が半島の支配権を確立し676年に半島を統一した。白村江の敗戦を受けて防衛政策が進められ、百済からの亡命貴族を中心に大宰府の北方に水城や大野城〜朝鮮式山城がきずかれた。〜670年には最初の戸籍である庚午年籍を作成した。」(『詳説日本史』)と記されている通りである。

この点については、2011年度の一橋大学の【1】の問3とまさに同じである。もっとも今回扱っている東大の問題のほうが、10年以上前のものだが。


 ここまでで、答案の骨子は見えてきたのではないか。

オ→白村江の戦いで唐・新羅に敗北したこととその後の朝鮮半島情勢(東アジア情勢)の緊張を受けて、天智天皇は防衛政策を中心として中央集権的な律令国家建設を進めた。
ア→その中で、民衆を把握するために最初の全国的戸籍である庚午年籍を作成した。
エ→壬申の乱に勝利して強大な権力を握った天武天皇は、豪族を介さずに直接民衆を徴発する中央集権的な軍事体制の形成を進めた。
ア→持統天皇はこの政策を継承し、庚寅年籍を作成して民衆の把握を進めた。
イ→そして、この戸籍に基づいて民衆の成年男子の3〜4人に1人が徴発されて兵士となる制度が整えられた。

 何だか結果としてウの「戸籍作成と軍事体制との関連」についても触れられていて、なんとなくできたような気がする。

 しかし、忘れてはいけない。
東大の問題で与えられている資料には過不足はない!問題文に何と書いてあったか。


 軍事力の建設の視点からみると、律令国家の支配の仕組みや、正丁3〜4人を標準として1戸を編成したことの意味がわかりやすい。


 以上の内容で、「律令国家の支配の仕組み=戸籍によって民衆を把握し、豪族を介さず兵士を徴発する」は書けている。しかし、正丁3〜4人を標準として1戸を編成したことの意味にはまったく触れられていない。

 まさにこれがウのポイントだと考える。

 律令の戸は実際の家族そのままではなく、血縁に関係なく、あくまでも政治的に編成されたものである。「兵士を課されるのは、その戸にとって痛手であった。」という教科書の内容を素直に読むと、「兵役を課せられる戸と逃れる戸があって、運悪く課された戸は痛手であった」ようにとれる。
 しかし、正丁3〜4人を標準として1戸を編成したということは、最初から一戸から1人ずつ徴発することを前提として、戸を編成したということである。つまり

 
正丁3〜4人から1人の割で兵士を徴発するという軍事上の観点から、正丁3〜4人で一戸となるよう戸籍を編成した

のであり、律令制下の兵役とは、

 戸籍に基づき、一戸から1人ずつを兵士として徴発する制度

なのである。これがウであり、このことに気付いていることをしっかりと示せる答案をつくりたい。


 以上を210字でまとめればよい。


<野澤の解答例>

白村江の戦いの敗北とその後の東アジア情勢の緊張を受けて、天智天皇は防衛政策を中心として律令国家の建設を進め、民衆を把握するために最初の全国的戸籍である庚午年籍を作成した。壬申の乱に勝利して強大な権力を握った天武天皇は、豪族を介さず直接民衆を徴発する中央集権的な軍事体制の形成を進めた。政策を継承した持統天皇は庚寅年籍を作成し、民衆把握を進めた。こうして戸籍に基づき、一戸から1人ずつを兵士として徴発する体制が整えられた。(210字)


 ぼくのHPを見てくれている人は気付いたと思うが、
この問題は今年度(2011)の東大の問1とも結びついている。問1の設問Aは、

A 白村江の戦いに倭から派遣された軍勢の構成について、1行(30字)以内で述べなさい。

であり、それに対するぼくの解答例は、

A西日本の旧国造系豪族とその支配下にある民衆で構成された。(29字)

である。
 白村江の戦いに従事した兵士は、豪族の支配下にある民衆であった。それを天智・天武・持統たちは、「豪族を介さず直接把握した民衆から徴発した兵士」による軍団にしようとしたのである。


 できればであるが、天智・天武・持統の時代は、律令国家建設=中央集権制度確立に邁進している時代であり、それを「政ノ要ハ軍事ナリ」の原則」(政治の中心は軍事力)」と言っているのだから、最初に「軍事力を中心として中央集権的な律令国家建設を進めた」という流れに沿って書けばよいのだと気付きたい。そうすれば相当、答案作成が楽になる。(参照:発展 『なんで飛鳥浄御原令なんかつくったんですか?』ー律令国家形成とは何かー

 
2011.10.15


窓・発展目次へ戻る
東京大学入試問題解説TOP
トップページへ戻る