定期考査前の放課後、質問を受けているときに次のように言われた。
「なんで飛鳥浄御原令なんかつくったんですか?」
厩戸王=憲法十七条 → 天智天皇=近江令 → 天武が着手、持統天皇が施行=飛鳥浄御原令 → 文武天皇=大宝律令 → 藤原不比等=養老律令
「丸暗記せい!」と言われなくてもほとんどの生徒は、あまり疑問も持たずにそのまま覚えるのではないか。今までこんな質問を受けたことはなかった。「考査前に今さら」の質問である。一瞬戸惑った。
しかし、これこそが「律令国家が形成される時期の生気ある若々しい」(山川『詳説 日本史』p.34)時代のイメージを持たせるキーワードなのではないか。そして律令国家形成とは何を目指そうとしていたのかという全体のイメージを持てば、
「(憲法十七条は)のちの官僚制的な中央集権体制の方向に一歩をすすめたものといえる。」○か×か?
という正誤問題で迷うこともなくなるのではないかと思った。(答えはもちろん○)
589年に隋が南北朝を統一し、高句麗などの周辺地域に進出しはじめたことが、東アジアに激動の時代をもたらしたことは、教科書にも記されている。日本を含む周辺諸国は、国際的緊張のもと国家組織の形成をせまられた。これは、2010年度の京都大学の論述の問題とも関係している。(入試問題解説「2010年度京都大学その1」へ)
隋は、均田制・租庸調制・府兵制により財政・軍事の基礎をかためようとし、儒学の試験によってひろく人材を求める科挙の制度をつくって中央集権化をはかった。そして唐は、隋の制度をうけつぎ、それを律・令・格・式の法制にもとづく整然とした体系につくりあげた。(律令国家)(山川『詳説 世界史』より抜粋)
つまり律令国家とは
@ 儒学の学力(能力)によって選ばれた官僚が、
A 法制にもとづく整然とした体系のもと
B 中央集権の政治を行う
国家である。これを推古朝(厩戸王)の政治に重ねてみると、
@ 儒学の学力(能力)によって選ばれた官僚が→冠位十二階
A 法制にもとづく整然とした体系のもと→憲法十七条
B 中央集権の政治を行う→「詔を承りては必ず謹め。(3条) 国に二の君なく、民に両の主なし。率土の兆民、王を以て主とす。(12条)」
多くの受験生が憲法十七条の性格を「官吏たる豪族に対する政治的・道徳的訓戒であって、法ではない。」と覚えているのではないか。もちろん律令にはほど遠いし、官僚登用のための試験制度もない。しかし、官僚+法+中央集権という方向性は見ることができる。冠位十二階が個人に与えられ、昇進可であったこともそのことを物語る。
天武・持統朝でこの動きは大きく前進する。
@ 儒学の学力(能力)によって選ばれた官僚が→675年に豪族領有民をやめ、官人の位階や昇進を定めて官僚制の形成を進めた。(山川『詳説 日本史』p.33)+八色の姓(新しい国家体制に対応した官僚制をつくるための政策の一環)
A 法制にもとづく整然とした体系のもと→飛鳥浄御原令(ちなみにこのころ、「律」は中国の物をそのまま使っていたようである。)
B 中央集権の政治を行う→藤原京(有力な王族や中央豪族がそこに集住させられ、国家の重要な政務・儀式の場として、中国にならった瓦葺きで礎石建ちの大極殿・朝堂院がつくらた。)+「天皇」という称号(天皇は、それまでは豪族たちの合意で選ばれる王という形式だったが、超越的な地位に変化し、それが「飛鳥浄御原令」で制度として定着した。)
新しいものを創造しようとするとき、大きなエネルギーが必要である。
明治維新を推進した大久保利通、木戸孝允たちが30歳代であったことから、「明治維新は学生運動のノリだった。」と評されることがある。
憲法十七条のころ厩戸王30歳前、即位の時天武40歳ごろであった。
しかし改革のエネルギーは、実年齢よりも精神的な若々しさによるものが大きい。実際、70歳を過ぎてもチャレンジ精神旺盛、アイディアが湧き出づる人はいるし、その反対の人もいる。
689年、飛鳥浄御原令が施行された。
そしてその12年後の西暦701年、大宝律令が完成し、日本は律令国家となった。
隋が建国された時、何一つなかった”倭”の国は、わずか100年で中央集権国家”日本”となった。
天武・持統天皇の時代を中心とした白鳳文化の時代は、律令国家が形成される時期の生気ある若々しい、改革のエネルギーにあふれた時代であった。
2010.6.26
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