2011年度 『東京大学 その1』

白村江の戦いとその後の情勢
  

【1】663年に起きた白村江の戦いとその後の情勢に関する次の(1)~(5)の文章を読んで、下記の設問A・Bに答えなさい。

(1) 664年、対島島・壱岐島・筑紫国等に防人と烽火(とぶひ)を置き、筑紫に水城を築いた。翌年、答ほん(火+本)春初(とうほんしゅんしょ)を派遣して長門国に城を築き、憶礼福留(おくらいふくる)・四比福夫(しひふくふ)を筑紫国に派遣して大野城と基肄城とを築かせた。

(2) 高句麗が滅んだ668年、新羅からの使者に託して、中臣鎌足は新羅の高官金臾信(きんゆしん)に船1隻を贈り、天智天皇も新羅王に船1隻を贈った。唐に向けては、翌年高句麗制圧を祝う遣唐使を送ったが、その後30年ほど遣使は途絶えた。

(3) 671年、倭の朝廷は、百済貴族の余自信(よじしん)・沙宅紹明(さたくじょうみょう)・憶礼福留・答ほん(火+本)春初ら50余人に倭の冠位を与えて、登用した。

(4) 百済救援の戦いに動員された筑紫国の兵士大伴部博麻(おおともべのはかま)は、ともに唐軍に捕えられた豪族の筑紫君ら4人を帰国させるために自らの身を売った。博麻が新羅使に送られて帰国できたのは、690年のことであった。

(5) 『日本霊異記』によれば、備後国三谷郡司の先祖は、百済救援の戦いに赴いて無事に帰国したのち、連れ帰った百済人僧侶の力を借りて、出征前の誓いどおり、郷里に立派な寺院を建立したという。この寺院は、発掘調査された寺町廃寺である。伊予国の郡司の先祖についても、同様の話が伝わる。

設問
A 白村江の戦いに倭から派遣された軍勢の構成について、1行(30字)以内で述べなさい。

B 白村江での敗戦は、日本古代の律令国家の形成にどのような影響をもたらしたのか、その後の東アジアの国際情勢にもふれながら、5行(150字)以内で述べなさい。


<考え方>

Aについて。
求められているのは、
(1) 白村江の戦いに派遣された
(2) 軍勢の構成を
(3) 30字以内

で述べる。この手の東大の問題は、「
与えられている史料に過不足はない。」は原則である。

 まず(1)~(5)の中で、戦いに派遣された軍勢の構成に関係する史料を探そう。「百済救援の戦い(白村江の戦い)」に従軍した者について述べているのは(4)と(5)である。この2つをしっかりと読もう。

 まず(4)では、「白村江の戦いに
動員された兵士が、ともに捕らえられた豪族らを助けるために身を売った。」とある。兵士と豪族とどっちが身分が上であるかは、言うまでもない(豪族>兵士)。
 ドラマなら主君のために家臣がすすんで犠牲を買って出たという美談にもなるだろうが、この時代、
強制的に動員された民衆が、すすんで犠牲になるはずはなく、これは豪族が自分を解放してもらうかわりに、自分の自由になる民衆、つまり支配下にある民衆を売ったと考えるべきであろう。

 次に(5)である。
備後国(現在の広島県)の郡司の先祖と伊予国(現在の愛媛県)の郡司の先祖は、ともに百済救援の戦い(白村江の戦い)に従軍していることがわかる。郡司は旧国造系の豪族が任命されていたから、ここからでも豪族が軍勢に加わっていたことが分かる。
 さらにわざわざ備後国、伊予国と具体的に記しているところに注目したい。

 (4)だけでも「豪族とその支配下の民衆」という答えは導きだせるのに、あえて(5)を加えたのは意味があるはずだ。考えられるのは、
広島県&愛媛県→西日本という構図と郡司←旧国造系である。

 これを1行(30字)以内でまとめたい。

 西日本の旧国造系豪族とその支配下にある民衆で構成された。(29字)

Bについて。
求められているのは、
(1) 白村江での敗戦が、
(2) 日本古代の律令国家の形成にもたらした影響を述べる。
(3) その際、その後の東アジアの国際情勢にもふれる。
(4) 150以内


で述べることである。

 それぞれの資料から、関係するところをまとめてみよう。

(1) からは
ア 664年→白村江の敗戦の後
イ 対島島・壱岐島・筑紫国等に防人と烽火を置き、筑紫に水城を築いた→
防衛政策を進めた
ウ 翌年、答ほん春初を派遣して長門国に城を築き、憶礼福留・四比福夫を筑紫国に派遣して大野城と基肄城とを築かせた→
その際、百済からの亡命者(亡命貴族)を登用した。

(2) からは、
エ 高句麗が滅んだ後、新羅からの使者に託して、中臣鎌足は新羅の高官に船1隻を、天智天皇も新羅王に船1隻を贈った→
新羅との関係修復をはかった。
オ 唐には、翌年高句麗制圧を祝う遣唐使を送ったが、その後30年ほど遣使は途絶えた。→
唐とも関係修復をはかったが、その後、関係は途絶えた。なぜか?ここは、受験生としての基本知識を生かさなければならない。高句麗を滅亡させた後、新羅は朝鮮半島から唐の勢力も追い出し、半島を統一したことは基本的事項である。
 これが
(3) その後の東アジアの国際情勢にもふれながらのポイントである。
 
 つまり、DとEから、日本は白村江の敗戦の後、新羅・唐との関係修復を図ったが、
朝鮮半島の支配を巡って新羅と唐が対立すると、この対立を利用して、より日本と地理的に近い新羅に接近することで、国の安全を図ろうとしたわけである。

(3) からは、
カ 671年、倭の朝廷→670年に庚午年籍が出ているので、天智天皇の時
キ 百済貴族50余人に倭の冠位を与えて、登用した→百済貴族を日本の政権内で登用した→その知識を国内統治に生かそうとした。

 天智朝から天武・持統朝の時代は、
急速に中央集権国家=律令国家の建設が進められた時期である。(発展 『なんで飛鳥浄御原令なんかつくったんですか?ー律令国家形成とは何かー 』参照)
 特に(2) 日本古代の律令国家の形成にもたらした影響について問われているのだから、ここはしっかりと意識したい。
 つまり、
倭の朝廷は、百済貴族を登用しながら律令にもとづく中央集権国家の建設を進めたと言える。

 さらに(5)も白村江の戦い後の国内情勢を記している。
ク 備後国三谷郡司の先祖は、連れ帰った百済人僧侶の力を借りて、郷里に立派な寺院を建立した。伊予国の郡司の先祖についても、同様の話が伝わる→
白村江の戦いの後、地方豪族が独自に大陸の先進文化を受容する動きが見られた。

 
ここまでをまとめてみる。

ア=白村江の戦いの後、
イ・ウ=亡命した百済貴族を登用して防衛政策を進めた。
エ・オ=高句麗滅亡後、朝鮮半島の支配をめぐって唐と新羅が対立すると、それを利用して新羅に接近して国の安全をはかった。
カ・キ=それと並行して、倭の朝廷は、百済貴族を登用しながら律令にもとづく中央集権国家の建設を進めた。
ク=一方、地方豪族の間でも独自に大陸の先進文化を受容する動きが見られた。

朝廷(中央)は、白村江の戦いの後、百済からの亡命貴族を用いて防衛政策を進めるとともに、高句麗滅亡後の朝鮮半島支配を巡る唐と新羅の対立を利用して新羅に接近して国の安全を図りつつ、百済貴族を登用して、律令にもとづく中央集権国家の建設を進めた。

地方では、地方豪族の間でも独自に大陸の先進文化を受容する動きが見られた。

となる。これを150字以内にしたい。例えば、  

朝廷は白村江の戦いの後、百済からの亡命貴族を用いて防衛政策を進めるとともに、高句麗滅亡後の朝鮮半島支配を巡る唐と新羅の対立を利用して国の安全を図りつつ、百済貴族をも用いて、律令にもとづく中央集権国家の建設を進めた。その一方で、地方豪族の間でも独自に大陸の先進文化を受容する動きが見られた。(144字)

となる。

 しかしである。設問をもう一度読み返すと、求められているのは、
日本古代の律令国家の形成にもたらした影響である。このまとめ方では、地方豪族の先進文化受容は白村江の戦いの影響ではあるが、律令国家の形成にどうつながるのかが伝わってこない。
 では、この(5)の資料はあくまでAの問いのためのもので、Bには関係ないのか。つまりは答案から削除するべきなのか、という疑問が起こる。
 そこでもう一つ踏み込んで考えたい。この時代、日本が受容を急いだ大陸の先進文化の最たるものは何であったか。もちろんこの問題のテーマともなっている律令制である。
 
郡司という地方行政を担う豪族も大陸文化を受容したということは、そのまま地方行政を担う郡司たち地方豪族にも律令制を受け入れる素地はできたということではないか。
 
これが資料(5)が与えられている意味ではないかとぼくは考える。


<野澤の解答例>
 
A西日本の旧国造系豪族とその支配下にある民衆で構成された。
(29字)

B朝廷は白村江の戦い後、百済からの亡命貴族を用いて防衛政策を進めるとともに、朝鮮半島支配を巡る唐と新羅の対立を利用して国の安全を図りつつ、百済貴族も登用して律令に基づく中央集権国家の建設を進めた。一方で、地方豪族の間でも独自に大陸の先進文化を受容する動きが見られ、律令制を受け入れる素地が形成された。
(150字)

 Bは、「百済貴族」が2度、「進める(た)」も2度でてきて文章として美しくはないが、言いたいことをしっかり書こうとすると、こうなってしまった。もっと文章を練るべきなのかもしれないが、受験会場で書くことを考えるとぼくにはこれが限界かなと思う。


2011.2.28

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