エピソード 「平塚明と雑誌『青鞜』と『若いツバメ』」

 平塚明(はる)が本名。明子(はるこ)は通称。ペンネームがらいてう(雷鳥)である。彼女は「新しい女」と呼ばれて、夏目漱石の『三四郎』の美奈子のモデルとも言われてるが、『青鞜』とそのメンバーは“良妻賢母”を主張する人々の痛烈な批判を浴び、大正5年(1916)に廃刊に追い込まれることになる。しかしこうして注目されたことによって、社会、政治、経済などに興味を持つ女性が増えていった。
 平塚は『青鞜』の創刊にあたって与謝野晶子に原稿を依頼したが、「女は男にはかないません」と言われ、ショックを受ける。しかし、一番最初に原稿を送って来たのはその与謝野晶子であり、平塚を感激させた。次は『青鞜』創刊にあたって晶子がよせた詩である。

山の動く日きたる、
かく云へど、人これを信ぜじ。
山はしばらく眠りしのみ、
その昔、彼等みな火に燃えて動きしを。
されど、そは信ぜずともよし、
人よ、ああ、唯だこれを信ぜよ、
すべて眠りし女、
今ぞ目覚めて動くなる。

 有名な『青鞜』の「元始、女性は太陽であった。真性の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。」に始まる発刊宣言と比べてみたい。

 ところで、平塚明ってどんなイメージですか?彼女も与謝野晶子に負けない情熱的な女性ですよ。
 1908年、22歳の時、夏目漱石の弟子、森田草平との雪の塩原逃避行、心中未遂事件で世間を騒がせる。(森田草平はこの事件により、社会的に葬り去られようとしたが夏目漱石に救われ、後にこの体験を朝日新聞に『煤煙』として発表し、華々しく文壇に登場することになる。)
 更に、1914年には、5歳年下の画家、奥村博史と同棲(のち1918年結婚)、大騒ぎとなる。この時、奥村博史は平塚明の運動を尊重し身を引いたが、その時、明に宛てた手紙に「静かな水鳥たちが仲良く遊んでいるところへ一羽のツバメが飛んできて平和を乱してしまった。若いツバメは池の平和のために飛び去っていく」と書いてあった事から、この言葉「若いツバメ」が流行語になった。そして「ツバメ」の語は今日に至る。

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