『現代編3 国際社会への復帰』

【2】 国際社会への復帰  (P.139〜140)

 とにかく大物が2つ。「サンフランシスコ平和条約日米安全保障条約日本独立」、「日ソ共同宣言国際連合加盟」である。

1 第3次吉田茂内閣
 第3次吉田茂内閣のキーワードは、「朝鮮戦争1950)→サンフランシスコ平和条約日米安全保障条約」である。
 なお、レッド・パージの嵐がふいて、国鉄をめぐる怪事件が起こったのも、同じ第3次吉田内閣の時(1949)であり、この項は政治史的には138頁の「国鉄・・・」の続きである。

 1950年に起こった朝鮮戦争の年、日本の再軍備が始まる。警察予備隊創設である。日本を独立させ西側陣営の一員にしたいアメリカに呼応するように吉田内閣は独立をすすめるが、ここで日本国内で意見の対立があった。いわゆる全面講和論単独講和論である。
 全面講和論とは、中国、ソ連をはじめ全ての交戦国と一度に講和条約を結ぶのでなければ、条約を結ぶわけにはいかないという、革新勢力を中心とする主張であり、対する単独講和論とは、まず応じてくれる国と条約を結んで独立し、残る国とは個別に講和条約を締結していこうという、吉田をはじめとする保守勢力の意見であった。
 吉田茂は、全面講和論の中心人物であった当時の南原東大総長を「曲学阿世の徒」と罵倒したが、少なくとも当時の冷戦構造を考えれば、アメリカ側陣営の一員となる日本の独立をソ連が認めるはずはなく、全面講和論は理想であるとともに、現実的な日本の独立を否定するものでもあったことは否めない。(エピソード「何が何でも独立だ!ー映画『小説吉田学校』の名場面ー」へ

 サンフランシスコ平和条約は、1951年吉田茂らを全権として48カ国と調印された。(この全権に関してセンターテストは痛い出題ミスをしているので、センターで出題される可能性は低いが、当然知っておかなければならない)(エピソード「育ちのいい生粋の野蛮人ー白洲三百人力ー」へ
 意外によく出題されるのが、「非招請国(招かれなかった国)=中国」「非調印国(会議には参加したが調印しなかった国)=ソ連チェコスロバキアポーランド」「不参加国(招かれたが来なかった国)=インドビルマユーゴスラビア」の区別である。これらの国々とはノートに記してある通り、個別に平和条約を結んでいく。
(この時、多くの国が賠償請求権を放棄したが、フィリピン・インドネシア・ビルマ・南ベトナムとは賠償協定を結び、1976年までに支払ったことが、センターで出題されている。)
 そして最大のポイントの1つが、「サンフランシスコ平和条約と同時に日米安全保障条約が結ばれた」ことである。ただし紛らわしいのは、いわゆる安保闘争は、1960年の新安保条約の時であってこの時(1951)ではない。

 この日米安全保障条約に基づく米軍駐留の具体的な取り決めが、例の沖縄で米軍が日本人を暴行しても、ひき殺してもなかなか逮捕されない日米行政協定(1952)である。内灘事件(石川)や砂川事件(東京)などの基地反対闘争が起こるのは、安保条約の結果だということを考えれば、事件の時代は判断できる。
 皇居前広場での血のメーデー事件を機に破壊活動防止法が制定されたのは、日本が台湾を中国政府と認め(日華平和条約)、警察予備隊が保安隊に改組された年(1952)と同じと覚えて欲しい。

 第4次吉田内閣は「バカヤロー解散」で、話としてはおもしろいが、試験にはでない。

2 第5次吉田内閣
 このあたりになると第何次よりも年代が大事になる。「MSA協定自衛隊1954)」そして「自衛隊とゴジラは同級生」である。
 MSA協定で、アメリカが対日経済援助をするかわりに、日本は軍事力の増強を図ることを約束し、その結果として自衛隊が発足した。ここで、第一作のゴジラである。ゴジラは「アメリカが行ったビキニ環礁の水爆実験」でジュラ紀の恐竜が目覚め、身体にたまってしまった放射能を吐くという設定である。そして日本に上陸して自衛隊が迎え撃つ。自衛隊発足とビキニ水爆実験は同じ1954年である。「警察予備隊保安隊自衛隊」の順序は頻出。年代も2年おき。)被爆した第五福竜丸は、キーワード。翌年の1955年に、第一回原水爆禁止世界大会が広島で開かれるが、開催された時の内閣は、鳩山内閣である。

 長期政権となった吉田茂であったが、その「ワンマン」ぶりには反発も多く、鳩山一郎が公職追放を解かれ、日本民主党を組織して政治に復帰すると、首相の座を追われることとなる。

3 鳩山一郎内閣
 鳩山内閣のキーワードは「自由民主党結成55年体制始まる」と「日ソ共同宣言国際連合加盟」の2つである。
 国際的には、アジア・アフリカ会議が開かれ、ジュネーブで米英仏ソの首脳会談が開かれるなど、米ソ以外の第三勢力の台頭と緊張緩和、いわゆる「雪どけ」の流れがあった。
 国内では、日本民主党と自由党の保守合同が行われ(もともと自由党も鳩山がつくった)、自由民主党が結成される。これに対し、講和条約を巡って左派と右派に分裂していた社会党も統一。「過半数を越える議席を持ち政権を維持し続ける自民党と、憲法改正に必要な三分の二以上の議席は自民党に与えない野党第一党の社会党という構図」が1955年に出来た。これを55年体制という。
 ちなみに、この構図を約40年ぶりに崩壊させたのが、「たった一人の新党(日本新党)」結成から瞬く間に政権の座に登りつめた細川護煕内閣(1993)であった。
 そして、念願の国際連合加盟は、鳩山首相自らが赴いて調印した日ソ共同宣言1956)の結果であった。鳩山首相自身が、日本の加盟に反対していたソ連のモスクワへ行き、調印した。これによりソ連が賛成にまわり、日本の国連加盟が実現した。

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