『現代編4 高度経済成長及びそれ以後の日本』

 第12章 高度成長及びそれ以後の日本   

【1】 高度成長とそれ以後の政治

 流れとしては、『現代編3 国際社会への復帰』の続きなので、内閣の番号も通させてもらう。

(P.140〜141)

4 石橋湛山内閣 
 鳩山内閣の次は、ほんの一瞬石橋湛山内閣がある。受験では石橋のキーワードは彼が主宰であった『東洋経済新報』であるが、この石橋湛山、最近柳宗悦と並んで戦前朝鮮の植民地支配に反対した人物として、受験問題でも時々見られる。(『近代編後期5』でも述べたとおり。)
 小説『帝都物語』では、この日本を代表するリベラリストが病気で2ヶ月で退陣し、代わって「昭和の妖怪」こと岸信介が首相になるのは、日本を滅ぼそうとする呪いのためとまで書かれている。

5 岸信介内閣
 この「昭和の妖怪」、戦前は東条内閣の商工大臣として対米戦争に向かいながら、サイパン陥落で東条を激しく非難。首相の辞職要求に応ぜず閣内不一致で東条内閣を崩壊させる。東京裁判でA級戦犯となるも不起訴。公職追放が解けて政界に復帰し、首相になると「日米新時代」を唱えて極端な親米路線と、中国及び共産主義勢力との対決を展開した。
 内閣のキーワードはもちろん「日米新安保条約安保闘争」である。新安保条約に反対する国民10万人が国会を取り巻く中、条約は自然成立し、その直後、岸内閣は総辞職する。(この部分が正誤問題で問われる「条約成立後、岸内閣は長期政権となった→×」ことがある。)
 この安保闘争の激化で、安全が保障できないという理由からアメリカ大統領アイゼンハワーの来日が中止されたことも知っておかなければならない。(エピソード「兄弟二人、ここで死ぬのもいいかー妖怪の再評価ー」へ)

6 池田勇人内閣
 このような中で岸内閣の後をうけた池田勇人は、「寛容と忍耐」を唱え共産主義勢力との全面対決をさける方針を取った。
 池田内閣のキーワードはとにかく「所得倍増」というスローガンと「高度経済成長政策」である。
 高度経済成長政策のもと平均経済成長率は12%という驚異的な数字であった。その一方で農業の構造改革を図り、生産力を向上させるため(正誤問題「過疎対策ではない!」)に農業基本法(1961)が出され、愛媛県にもみかん農家が増えた。
 中国とは、「政経分離」の方針のもと担当者であった廖承志と高碕達之助のイニシャルからとったLT貿易が始まった。(日中覚書貿易に発展するのは、次の佐藤内閣)
 「貿易は意味不明貿易の自由化=IMF8条国移行」と「シフォンケーキはおいしーで資本の自由化=OECD加盟」(ともに1964年)は、差し替え問題要注意!
 1964年、東海道新幹線を開通させ、東京オリンピックを成功させた池田勇人は、それを見届けるかのように「貧乏人は麦を食え」などの名言(?)を残して世を去った。

7 佐藤栄作内閣 
 池田勇人の後首相となった佐藤栄作内閣は、長期政権となった。最重要は沖縄返還1972)だが、盛り沢山である。
 ベトナム戦争を背景に日韓基本条約(1965)を締結し、「韓国を朝鮮半島にある唯一の合法政府」と確認した。ここからベトナム戦争開始は1965年(〜1973)と分かる。
 また前の池田勇人の高度経済成長政策のツケが表面化し、公害問題が深刻になったのもこの時代である。公害対策基本法1967)が制定され、1971年には環境庁が設けられた。(かつてセンターテストで受験生に、環境庁設置が1960年代後半ではなく1970年代であることを判断させる問題があったが、歴史認識を問うものとして何か意味があるのか?悪問と言ってよい!)
 兄であった岸信介内閣の時成立した新安保条約の有効期限である10年を巡って、70年安保闘争が起こり、東大で1年間入試が行われないことがあったが、条約は自動延長された。
 小笠原返還の方が沖縄返還より前。そして、沖縄返還協定が結ばれた1971年そのものよりも、実際に返還された1972年の方がよく出題される。
 このほか、円切り上げ(360円から308円へ)、大阪万国博覧会(1970)→センター出題済。札幌オリンピック(1972)も知っておいて損はない。

8 田中角栄内閣
 そして、「コンピュータ付きブルドーザー」こと田中角栄内閣である。田中内閣の項目は全て重要。
 一番は日中共同声明1972)で、中国と国交を樹立したことだが、当時のアメリカ大統領がニクソンであったことも問われる。これはアメリカがドルと金の交換を停止した「ニクソン・ショック」の流れから、円が切り上がり(1971/佐藤内閣)、次いで円が変動相場制になった1973)ことを考えれば分かる。
 「日本列島改造」をスローガンとした田中内閣ではあったが、「第4次中東戦争石油危機」から「狂乱物価」と呼ばれた物価の沸騰で、高度経済成長は終わり、田中首相は金権問題で退陣した。(エピソード「トイレットペーパー狂想曲」へ)

9 三木武夫内閣
 金権政治への批判に対応するため「クリーン三木」といわれた三木武夫が組閣したが、折から発覚した田中前首相を巡るロッキード疑惑を本気で解明しようとして、いわゆる「三木おろし」に会い退陣を余儀なくされる。三木内閣の時、最初のサミット(先進国首脳会談/1975)がフランスで行われた(政経では基本)。

10 福田赳夫内閣
 そして成立した福田赳夫内閣の日中平和友好条約1978)が、センターレベルでは日本史の出題範囲の最後であろう。

 ここからは私文型のおまけ。福田赳夫は「私は天の声に従う」と自民党総裁選挙に臨んだが、大平正芳に敗北。「天の声にもたまには変なのがある」と退陣、大平内閣となる。しかし社会党が「お約束」(怒るやろな)で出した内閣不信任決議案採決に福田派などが欠席。不信任決議は可決される。「辞めるのですか?」と記者から聞かれた大平は、「辞めろということは死ねということか」と衆議院を解散。ところが総選挙中に急死した。
 鈴木善幸はパス。
 中曽根康弘内閣は、男女雇用機会均等法とともに3公社の民営化という行政改革が問われることがある。
 竹下登は消費税とリクルート事件。
 宇野宗佑もパス。
 宮沢喜一は「PKO協力法で自衛隊が最初に派遣された国はどこ?→カンボジア」という問題があった。

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