エピソード「育ちのいい生粋の野蛮人ー白洲三百人力ー」

 サンフランシスコ講和会議吉田茂首相の演説の場面は、時々放映される。映画『小説吉田学校』でも、この場面は実際の映像を使用している。
 会議の最後に吉田首相が日本語で行ったこの演説の原稿は、2日前まで英文であった。GHQと外務省が用意した演説原稿を、

講和会議というものは戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の演説原稿を、相手方と相談した上に相手方の言葉で書くバカがどこにいるか。

と言い、吉田首相に独立国の面子として、日本語で演説するように諫言したのが、白洲次郎である。

 裕福な家庭に生まれ、ケンブリッジ大学卒で海外取引を専門とする欧米通の商社マンであった白洲を、吉田は占領軍と日本政府の交渉窓口へと引き抜いた。白洲は「ワンマン吉田」に諫言し得る唯一の側近となった。
 ケンブリッジ大学時代、白洲は「走る宝石」と言われた名車ブガッティでヨーロッパを駆けめぐった。イギリス紳士道にどっぷりひたった彼は、アメリカ文化を成金文化と見下していた節がある。

日本は戦争に負けたのであって、奴隷になったのではない

という彼は、principle という言葉を好んで使った。principle は受験英語であり、辞書では「原理、原則、自然の法則、主義、道義、節操」などと訳されている。これだけ訳があると何のことか分かりづらく、受験生を悩ませそうだが、要するに「筋の通ったこと」というニュアンスである。
 つまり、たとえ戦争に勝った占領軍であったとしても、筋の通らないことは認めないという姿勢であった。


 逸話としては「クリスマスプレゼント」の話が最も有名であろう。敗戦後初めてのクリスマスに白洲は、昭和天皇からマッカーサーの一家に贈るクリスマスプレゼントを託された。ところが マッカーサーの身辺はすでに贈り物で一杯で置き場が無かった。 マッカーサーは床に目をやり、「そこに置いていけ」という仕草を見せた。その瞬間、白洲は 怒りを爆発させ、「いやしくもかつて日本の統治者であった者からの贈り物を、その辺に置けとは何事か!」と、そのままプレゼントを持ち帰ろうとした。驚いたマッカーサーは、 慌てて新たなテーブルを用意した。
 また、GHQのホイットニー民政局長が彼の流暢な英語を褒めた時、「あなたの英語も、少し勉強なされば一流になれますよ」と切り返した話なども、白洲次郎ならではと言える。

 これらの振る舞いに、GHQは白洲を「占領下、ただ一人の従順ならざる日本人」と評している。

 しかし世間の評判は散々であった。白洲の意にそわないものは追放されるという意味の「Sパージ」という言葉が生まれ、「ファイブパーセンター」(5%の仲介料を取る口利き屋)と陰口をたたかれた。
 少資源国日本が生き残る道として、産業政策を輸出主導型へ転換させようと、商工省を解体し通産省を設立したのも白洲である。当然官僚たちの凄まじい抵抗があったが、それをなし遂げる政治力は「白洲三百人力」と言われた。

 僕が見た白洲次郎を取り上げたテレビ番組は、1つだけである。何かのバラエティー番組で、「ジーンズの似合う日本人ランキング」をやっていた。居並ぶ俳優たちを抑えて1位に位置づけられたのが白洲だった。恐らく番組の参加者のほとんどは、白洲次郎という名前さえも知らなかったのではないか。
 番組が白洲を選んだ理由は、サンフランシスコ講和会議に向かう彼の服装であった。白のTシャツにジーンズ。それが長身の彼に実によく似合っていた。演説原稿を英文から日本語に改めさせた白洲は、一方で成金文化アメリカを喜ばすすべも心得ていた。

 そして条約締結。日本の独立がなった時、秘書官として同行していた宮沢喜一は、初めて白洲が泣くところを見たという。

 幼なじみの作家今日出海に、「育ちのいい生粋の野蛮人」と評された白洲次郎は、「葬式無用、戒名不要」の言葉を残して、1985年、83歳で世を去った。

 (2002.8)

追記:今では白洲次郎よりもその夫人である白洲正子(作家、随筆家、文学研究者)のほうが有名であろう。次郎にとってはこの正子との出会いが本当に運命を変えたと言える。
 イギリス留学中の次郎が帰国したのは、実家が
金融恐慌1927)のあおりで倒産したためであった。彼は友人の紹介で樺山伯爵家の令嬢でアメリカ留学から帰国したばかりの正子と知り合う。正子の祖父は蛮勇演説の樺山資紀(近代編前期5『立憲国家の成立』参照)である。互いに一目惚れであった。この時のことを白洲正子が『白洲正子自伝』の中で次のように書いている。

 そこへ忽然と現れたのが白洲次郎である。「ひと目惚れ」というヤツで、二十五歳まで遊ぶことも、勉強も、目の前から吹っ飛んでしまった。が、何といっても、十八歳のひと目惚れなのだから、当てにならぬことおびただしい。特に美男というわけではないが、西洋人みたいな身ごなしと、一八〇センチの長身に、その頃はやったラッパズボンをはいてバッサバッサと歩き廻っていたのが気に入ったのかも知れない。忽ち意気投合して、――といっても、その頃のことだから、せいぜい映画を見に行ったり、食事をいっしょにする程度で、無邪気なものであった。

「特に美男というわけではないが」と言うあたりは逆に「私がひと目惚れしたのだから、いい男だったに決まっているだろう」と言っているようなものである。しかも彼女は回想録で、家族を「あばれん坊の白洲次郎と結婚させなければ家出をするといっておどかした」と述べている。

 しかし、帰国の翌年結婚したこの伯爵家のお嬢さんの紹介で、次郎は吉田茂と出会うのである。時に次郎27歳、吉田51歳であった。

       
白洲次郎と正子が過ごした「武相荘」詳しくは「武相荘」のホームページを御覧ください。

(2006.3.11追記)

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