『近代編前期9 近代産業の発展と社会運動の発生』

【9】 近代産業の発展 (P.115〜116)

 3つの時期に大きく分けられる。
1 企業勃興(1880年代後半)
 松方デフレの影響で、物価が安定した1880年代後半、鉄道紡績で会社設立ブーム(企業勃興)が起こった。具体的に入試で出るのは、「日本鉄道会社(華族出資/1881/政府の保護を受けて成功)→鉄道会社設立ブーム→1889年=東海道線全通・民営鉄道>官営鉄道(営業キロ数)」と「渋沢栄一大阪紡績会社1883開業)withイギリス蒸気機関」である。

 また、三菱汽船と半官半民の共同運輸会社が1885年に合併した日本郵船会社が、政府の保護政策(造船奨励法・航海奨励法)のもとで遠洋航路を開拓していったことも知っておきたい(造船奨励法は、京都の某私大で史料で出て驚かされた)。5つある特殊銀行は「貿易金融横浜正金銀行」ができれば、まずO.K.

2 第1次産業革命(日清戦争前後)
 「日清戦争前後第1次産業革命軽工業中心」のセット。始めに、知っている人にとっては、莫迦みたいな確認。「製糸は生糸づくり」、「紡績は綿糸づくり」。
 中心は
@「紡績手紡ぎガラ紡(臥雲辰致)→機械紡績」
A「製糸座繰製糸→器械製糸」
B「綿織物業=手織機改良→飛び杼
の流れもの3点セット。
 年代は、「綿糸輸出高が輸入高を越えた1897年」が紡績業確立の年とされ、頻出する。特に1897年は、「貨幣法」が制定され、念願の金本位制が確立した年でもある。金本位制は日清戦争の賠償金からなることは言うまでもない。しかし、紡績業の発展に伴う綿花輸入増(中国・アメリカ・インド)と金本位制の確立とがあいまって、1900年に、「資本主義恐慌」がおこった。また、製糸(生糸)がアメリカ向け輸出であったことは絶対。

<大阪紡績会社の成功が国内の木綿栽培に与えた影響>
 『近代編前期1 開国とその影響』で、「幕末に安価で高品質の綿織物が輸入されたことで、国内の綿花栽培が衰退したのではない。確かに一時的には綿製品の生産は衰えたが、手織機などを改良して、問屋制家内工業を中心として綿織物生産は上向いていった。原料糸を供給する紡績業も伸び、あわせて綿花生産も増えていった。綿花の国内生産が衰退したのは、大阪紡績会社(1883年開業)が大規模経営に成功したことが影響しており、1885年以降である」と述べた。
 大阪紡績会社がイギリスから輸入した紡績機械・蒸気機関を用いて大規模経営に成功したことの影響は大きく、大阪などを中心に輸入機械を使用した紡績会社が次々と設立された。この外国製の紡績機に国産の綿花は合わなかったのである。
 明治政府は、明治7(1874)年から明治20(1887)年まで、米綿と呼ばれるアメリカ産綿花の移植事業を展開して、綿作の奨励と機械紡績業の原料綿の供給を図った。しかし、この事業は失敗に終わり、機械紡績のために中国・アメリカ・インドなどから綿花が大量に輸入されるようになり、国内の綿花生産は衰退した。これが、紡績業が発達したにも関わらず、綿業貿易全体では輸入超過になった原因である。
 これが大阪紡績会社の成功が、国内の綿花栽培を衰退させたという理由である。

3 第2次産業革命(日露戦争前後)
 「日露戦争前後第2次産業革命重工業中心」のセット。具体的内容はすべて一問一答だと思ってよい。中学校の教科書にも出ている八幡製鉄所が中国の大冶の鉄鉱石と筑豊炭田を利用したものであることは、言うまでもない。操業開始の1901年がよく問われる(みたい)。「室蘭→日本製鋼所」、「アメリカ式旋盤池貝鉄工所」と、キーワードが決まっている。日露戦争後、鉄道国有法(1906)を公布して、軍事上・経済上の理由から私鉄17社を買収して国有とした。
(軍事上とは、外国人株主もおり、有事の際に物流の大動脈の情報を掴まれることへの懸念。経済上とは、主要幹線が多数の私鉄によって分割保有されていることによる競争力の低下である。)
 四大財閥(三井・三菱・住友・安田)も中学の教科書に載っている。「三井の正式名=三井合名会社」は知っておいた方がいい。かつて愛媛県内の某私立で、「三井と三菱の正式名称を記せ」という問題があった。何か意味があるのかなぁ。(三菱合資会社。ちなみに住友合資会社、安田保善社。覚えなくていいけど)。植民地からの移入(朝鮮=綿糸移出、米移入)などは、最近でたね。(コラム『正誤問題で迷ったら』へ)

4 社会運動の発生 
(1)労働運動の発生
  まず、「ストライキは、日清戦争の前(1880年代)からある。」具体的には、三菱経営の高島炭坑スト(1883)など。
 最初の公害事件といわれる足尾鉱毒事件田中正造は絶対。渡良瀬川も知っておきたい。
 労働組合期成会1897)はアメリカ帰り高野房太郎と片山潜。これは大正デモクラシーの「友愛会=鈴木文治」と紛らわしい。
(2)政府の対応
 治安警察法(1900)は、「近代編前期7」を参照。ポイントは「工場法」と「大逆事件」
 「工場法」(1911)は、「すぐに施行されていない」し、「全ての工場に適応されたのではない。」
 「大逆事件」(1910)は、幸徳秋水らが処刑され、社会主義「冬の時代」を迎える。この事件にショックを受けた文化人として石川啄木『時代閉塞の現状』も問われる。(エピソード「大逆事件と文化人の反応」へ)また、この時「特別高等課」が設置された。
(3)社会主義運動
 「最初の社会主義政党社会民主党前年制定治安警察法で即刻禁止」。「前年制定の...」だから、治安警察法が1900年だと覚えていれば、社会民主党は1901年だとわかる。「最初の合法的社会主義政党=日本社会党(1906)→翌年禁止」。社会主義研究会は「安部磯雄で1898年」か。

 工場労働者の実態・調査
   あちこちにあるのを1つにまとめてみました。
 「横山源之助=『日本之下層社会』」と「細井和喜蔵=『女工哀史』」は正誤問題に注意。「農商務省=『職工事情』→工場法の資料」は一問一答。『あゝ野麦峠』は最近見てないなぁ(勉強不足だったらすみません)。

(2023.3.30 <大阪紡績会社の成功が国内の木綿栽培に与えた影響>を加筆)

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