『近代編前期1 開国とその影響』

第4部 近代・現代

 第9章 近代国家の成立

【1】 開国  (P.95〜96)

 中国貿易船と捕鯨船の寄港地を求めて、アメリカは日本に開国を求めるようになった。さらに1848年、ゴールドラッシュの影響で西海岸を開拓したアメリカは、その要求を強めることとなる。
 日本が、辻斬りなんて時代劇の中だけの話で、ほとんど凶悪犯罪もなく、人々が平和に暮らしていた時、ピストルを撃つのが速い奴が正義という、つまり戦国時代の武芸者みたいな奴がのさばっていた野蛮な国が、「おら〜、港をよこさんか〜。わしゃ、鯨の油だけがほしいんじゃ〜。」と言って、日本に迫ってきたわけである。

(いろいろな意見、批判はあると思う。しかしぼく個人としては、「殺せば食う」という生物としての大原則を守る限り、命を奪うことは許されると考えている。植物にも命はある。光合成のできない人間は、ほかの生物の命を奪わなければ生きていけない存在なのだ。そこをはき違えてはならない。捕鯨よりも許されないのは、イギリスで今でも行われている「狐狩り」のように、遊び、ゲームとして命を奪う行為である。)

 前置きはここまでとして、受験の日本史。

1 背景
 大きな流れとしては、産業革命市民革命(ともに中学校で学習済みのはず)を経た欧米諸国は、安い原料の供給地と自国製品の市場を求めて、アジアへ進出してくる。この動きの中でアヘン戦争は起こる。アヘン戦争の顛末を知らせたオランダ国王ウィレム2世は、日本の開国を勧告(1844)するが幕府は拒否。逆にオランダに厳重注意をする。
 しかし、太平洋を直接渡ることによって中国貿易でイギリスに勝ちたい新興国アメリカは、対中国貿易を行う船と、捕鯨船の寄港地を求めて、強く日本に開国を迫ってきた。

2 開国
(1)1846年、アメリカ使節ビッドルが浦賀に来航し、通商を求めるが幕府は拒否。ビッドルは引き上げる。
   しかし、1848年に、カリフォルニアで金鉱が発見され、ゴールドラッシュがおこり、太平洋側が開拓されるとアメリカは日本の開国を強く求めるようになった。
(2)1853年、アメリカ使節ペリー浦賀に来航。ビッドルが失敗した原因を研究したペリーは、何が何でも開国させるとの覚悟を持ってやってきた。ペリーの旗艦(司令官の乗っている船)サスケハナ号は難問。彼は久里浜(神奈川県)に上陸し、アメリカ大統領フィルモアの国書を渡し、回答を翌年まで待つと言って去る。(フィルモアも難問。かつて「1億2000万人のクイズ王決定戦」という番組があって、その決勝の問題として出たことがある。)
(3)ペリーが去った後、ロシアプゥチャーチンはまじめに長崎に来た。(←→ペリーは浦賀である)

(4)時の老中は阿部正弘であった。20代でやる気満々で老中首座になったものの、ことなかれ主義で、自己の保身ばかり図る幕閣に憤りを感じていた彼は、事情を公開。朝廷に報告し、広く意見を求めるという手段にでた。実際、幕府には諸大名から幕臣、町医者、遊郭の主人にいたるまで様々な人々の意見書が寄せられた。しかし、このことは朝廷の権威を上げるとともに、諸大名に幕政に参加する機会を与えることとなり、幕政の転換点となった。

(5)翌1854年、年が明けると早々にペリーは再び来航。ここに「日米和親条約」が結ばれ、日本は開国した。史料もチェック。ポイントは「下田・箱館の開港」と片務的「最恵国待遇」を与えたこと(つまり日米和親条約も不平等条約だった)である。さらに条約締結18ヶ月後より下田へ領事が駐在することを認めた。そして18ヶ月後きっちりにハリスが来日する(1856)。(エピソード「酒と泪と男と開国ー松崎満太郎ー」へ)

 この後、イギリス、ロシア、オランダとも同じような条約を結んだ。内容に気をつけるのは、日露和親条約のみである。「長崎の開港」と国境の確定(択捉島以南が日本領、得撫島以北がロシア領。樺太は両国人雑居の地である。択捉島と得撫島の間は地図でも確認しておくこと。)である。これによりアメリカも自動的に長崎を利用できるようになったが、なぜ? 「アメリカは最恵国待遇を認められていたから」である。

 この他、阿部正弘が行った安政の改革(台場=江戸湾の砲台、海軍伝習所=1855年長崎、講武所=陸軍、1856年江戸)もペリー来航の影響である。

 さて、来日したハリスは、アロー号事件(清がイギリスのアヘン密売船アロー号を臨検したことを機に、イギリスがフランスとともに大軍を発して、清を屈辱的な天津条約調印に追い込んだ事件)を背景に、イギリスの脅威を説いて通商条約の締結を迫った。つまり、不平等条約調印を渋る幕府に対して、イギリス、フランスに攻め込まれる前に少しでも良い条件で通商条約を結ぶべきだと説得したのである。これに対して老中堀田正睦は、攘夷派の反対を抑えるために、勅許という形をとろうと、上洛して孝明天皇に許可を求めたが、朝廷はこれを許さなかった。

3 日米修好通商条約
 1858年4月、井伊直弼大老になり、無勅許での通商条約調印を決定し、将軍継嗣(幕府では13代家定の後継として、誰を14代将軍にするかで対立していた。次の近代編後期2を参照)を徳川慶福と決定した。
 そして、1858年6月、「日米修好通商条約」が調印された。(ポイント。アヘン戦争→天保の薪水給与令 ⇔ アロー号事件→日米修好通商条約)これが安政の大獄の伏線となるのだが、この時交渉にあたった井上清直(きよなお)・岩瀬忠震(ただなり)らは、ハリスをして「この二人を得たのは日本の幸福」と言わしめたぐらい、井伊直弼をはじめとする担当者たちは頑張ったのだということを、もっと今の日本人は評価してもいいとぼくは思う。

 内容は史料と照らし合わせながら確認したい。
@ 神奈川(→実際は横浜)以下、箱館、長崎、新潟、兵庫の5港の開港。しかし兵庫(実際は神戸)が開港されたのは1867年だし、新潟は1868年。つまり全ての港が同時に開港されたのではない
A 史料中の「別冊」とは貿易章程のことで、これにより協定関税となる、つまり関税自主権がない
B 領事裁判権を認めていた治外法権を認めていた
 このAとBが不平等条約として大きな問題点とされたのは、知っての通り。
 さらに、自由貿易(貿易に役人は介在しない)が定められている。

 受験に必要なのは、ここまでだろうが、もっと日本人がもっと知っていてもいいのではないかと思うことが一つある。
 関税について定められている第4条には、「阿片(アヘン)の輸入は禁止する。」という条文がある。この一点だけでも、ぼくは井上や岩瀬を評価してよいと思う。

 和親条約と通商条約を結んだ国は、語呂合わせで覚える。

和親条約=アオイロ(アメリカ・オランダ。イギリス・ロシア)修好通商条約=アオイフロ(アメリカ・オランダ・イギリス・フランス・ロシア)(この語呂合わせは、ぼくが受験生のころ友人が言っていたものだが、良くできていると思う)ポイントは、和親条約を結ばずに修好通商条約は結んだ国が一つだけあって、それがフランスという点である。

 通商条約批准のためにアメリカにわたった全権は新見正興(彼はポーハタン号に乗った)であって、随行した咸臨丸勝義邦(海舟)ではない
 エピソードを1つ。この時、アメリカ政府は、今もホワイトハウスの隣に建っている超一流ホテル、「ウィルザードホテル」の2階を、全て日本使節のために借り切った。しかし、大統領に会った日本人の中には、「自分たちは精一杯正装していったのに、アメリカは下っぱが応対した。」といって憤慨した者がいた。なぜか?日本人は勲章とかを、金ぴかぴかにつけてる人が偉いと思っていた。大統領は付けてないわな。日本人は光り物が好きらしい(カラスか)。

4 貿易の開始とその影響
 キーワード3連発。
(1)「横浜中心のイギリス相手
(2)「生糸」を売って、「毛・綿織物」を輸入した。
 最初は出超だったが朝廷の反対で兵庫が開港されない見返りとして結ばれた改税約書(1866)調印の結果、入超になった。(エピソード「受験生が福沢君に見習うべきこと」へ)

 ここで入試問題を1つ。「日米貿易と南北戦争」について。
「日本を開国させたのはアメリカなのに、なぜアメリカとの貿易額が少ないのか。」という出題があった。
かつては、教科書や歴史用語集では、「アメリカは南北戦争が始まり、貿易額が激減した」と説明されており、今(2016年現在)でも、「アメリカが南北戦争中のこともあり、イギリスとの取引が一番多かった」(山川『詳説日本史B』p.253)のように記されている。
 一見、内容は変わっていないようだが、実は違うのである。もとの文だと「アメリカは積極的な対日貿易を望んでいたにも関わらず、南北戦争で後退せざるを得なかった」という意味になるが、後者だと「南北戦争が貿易に影響した」というだけである。
 確かに南北戦争の影響で、横浜港に入港したアメリカ戦の数と貿易額が減少したことは事実ではある。対アジア貿易そのものが減少しているのである。しかし、そもそもアメリカが日本を開国させた目的は「中国貿易のための船と捕鯨船の寄港地」の確保である。アメリカは、中国を中心とするアジア圏との交易を考えていたのであって、条約締結直後から日本との大規模な通商を行う意図があったかは疑問である。将来のために、市場の扉を開いておくという認識であったと思われる。
 したがって、「アメリカは南北戦争の影響で、対日貿易に出遅れた」という解釈は、グルーバルな経済史の視点を見落とした考え方だとぼくは思う。

 閑話休題
 生活必需品が国内で品不足となり、物価が上昇するとともに、産業革命の結果の安価な綿織物が大量に流入して、国内産業に打撃を与えることになった。
 ここで誤解してはならないのは、幕末に安価で高品質の綿織物が輸入されたことで、国内の木綿栽培が衰退したのではない。確かに一時的には綿製品の生産は衰えたが、手織機などを改良して、問屋制家内工業を中心として綿織物生産は上向いていった。原料糸を供給する紡績業も伸び、あわせて綿花生産も増えていった。
 綿花の国内生産が衰退したのは、大阪紡績会社(1883年開業)が大規模経営に成功したことが影響しており、1885年以降である(詳しくは『近代編前期9 近代産業の発展と社会運動の発生』で説明する)。

(3)金銀比価の相違のため、大量の金が国外へ流出した。これに対抗するために金の量を抑えた万延小判をつくった。(貨幣改鋳の表でも確認)しかし、当然のことながらインフレを招き、物価を上昇させた。

5 五品江戸廻送令
 横浜への生活必需品の直送による江戸の品不足→物価騰貴を防ぐために出された「五品江戸廻送令」(1860)の五品(雑穀、水油、蝋(正確な字が出ません)、呉服、生糸)は語呂合わせ等で全部覚えなければ意味がない。これは、在郷商人と条約で定められた自由貿易に反すると主張する外国の反対で成功しなかった

(2005.6.18追記)
(2010.3.20追記)
(2015.8.15加筆)
(2016.11.27 「日米貿易と南北戦争 」に関する解説を補足)

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