エピソード 『大逆事件と文化人の反応』

 大逆事件に対する文化人の反応は、第一学習社の史料集の解説などに詳しい。石川啄木や永井荷風は、大きなショックを受けたが、表立って行動を起こすことはなかった。文化人の中で公然とこの事件を批判したのは、徳富蘆花だけであったと言ってもよい。彼は、事件の約一週間後に第一高等学校で行われた講演の中で、「大逆事件の審判中當路の大臣は一人も唯の一度も傍聽に來なかったのであるー死の判決で國民を嚇(おど)して、十二名の恩赦で一寸機嫌を取って、餘の十二名は殆ど不意打の死刑ー否死刑ではない、暗殺ー暗殺である。」(謀叛論)と、政府を徹底的に非難した。

 受験生にとって徳富蘆花は、兄の徳富蘇峰に比べて印象が薄い。と言うよりも受験での出題頻度も、「民友社=『国民之友』=平民(的欧化)主義」の3点セットで必ず覚えなければならない蘇峰より、はるかに低い。

 蘆花は、国民新聞で連載した『不如帰』で一躍ベストセラー作家となった。特に結核に冒されて、姑にいじめられた挙げ句、愛する夫と離婚させられたヒロインの浪子が、死に際に「あゝ辛い! 辛い! 最早(もう)ー最早(もう)婦人(おんな)なんぞにー生まれはしませんよ。」と叫ぶシーンは有名である。
 しかし、それまでは決して順調ではなく、偉大な兄のもとで劣等感にさいなまれていた。兄蘇峰が、出身の熊本の阿蘇山から雄大な号を名乗ったのに対して、蘆花という号の由来も、「『蘆の花は見所とてもなく』と清少納言は書きぬ。然もその見所なきを余は却って愛するなり」と自ら述べているように、はっきり言って暗い。
 この講演を行ったときは、自由民権派から政府よりに転向した兄と不仲であり(死の直前、15年ぶりに再会して和解するのだが)、トルストイに傾倒してロシアまで訪ね(1906)、帰国後、トルストイ主義を実践するため「美的百姓」となって田園生活を送っていたころであった。

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