(P.119〜120)
5 近代文学
ノートは戦前までの文学を全てまとめてあります。逆に大正・昭和初期の文化の項には、文学はありません。受験では、別々に出ることはまずありませんから。「時代とジャンルと作者・作品」の3点セットを正確に。特に受験では「写実主義・ロマン主義・自然主義・プロレタリア文学」を中心におさえる。
「明治始め=戯作文学→仮名垣魯文『安愚楽鍋』」。文明開化を喧伝し、「牛鍋食わぬ奴は開けぬ奴だ」というセリフがある。
「自由民権運動を宣伝する=政治小説→矢野龍渓・末広鉄腸・東海散士」
「明治20年代=写実主義→坪内逍遥が『小説神髄』で小説とは勧善懲悪ではなく、人間の内面を描くものだと主張。見本として『当世書生気質』を書くが、結末ではやっぱり勧善懲悪になってしまった。二葉亭四迷(『浮雲』)は言文一致運動を展開した。坪内と二葉亭は、正誤問題に注意。硯友社もこの時代。特に尾崎紅葉『金色夜叉』は「今月今夜のこの月を...」で有名。写実主義と同時代に理想主義の幸田露伴がいて、紅葉と合わせて紅露時代と呼ばれる。
そして目玉は「日清戦争のころ=ロマン主義」で「日露戦争のころ=自然主義」
ロマン主義の中心は北村透谷『文学界』→樋口一葉。ロマン主義が与謝野晶子の歌(エピソード「『みだれ髪』と俵万智」へ)からもわかるように人間讃歌的なのに対し、次の自然主義は、人間の内面の負の側面、例えば差別(島崎藤村『破戒』)とか嫉妬(田山花袋『蒲団』)などを扱っている。ここまでが大体、明治時代。
この反動とも言えるのが、明治末から大正にかけての、人道主義の立場の白樺派。学習院出身のトリオ(武者小路・志賀・有島)である。ほぼ同時代に、「余裕派(高踏派)=夏目・森鴎外(←鴎の正しい字がでません。區+鳥です。))」と「耽美派=永井・谷崎」がある。(エピソード「無能軍医の言い訳文学? - 森鴎外 -」へ)
白樺派の雑誌『白樺』は猫でもわかるが、耽美派の雑誌が『スバル』であることは注意。夏目漱石の絶賛で登場した芥川らの新思潮派がこの次、さらに川端・横光の新感覚派と続く。この流れの一方で、大正末期の労働運動の発展などをうけて、社会問題をテーマとしたプロレタリア文学が起こった。
プロレタリア文学は、内容も頻出する。中でも最初の雑誌が『種蒔く人』であることと、小林多喜二(『蟹工船』)が治安維持法違反容疑で特高に逮捕され、拷問で殺されたことは絶対。徳永直の『太陽のない街』は、題材が共同印刷の争議であることから聞かれることがある。
6 芸能
基本的には全て一問一答。団菊左時代(9代目市川団十郎・5代目尾上菊五郎・初代市川左団次)というのは、明治のことだと知っておくこと。(正誤問題で出ても「何代目か」をずらしてくるなんていう悪問はまずない)河竹黙阿弥が脚本を書いている。河竹黙阿弥の作品には、文明開化に題材をとった「散切物」などがあるが、謡曲(能の脚本)をもとにした彼の作品『船弁慶』を、明治18年に9代目市川団十郎が初演していることを考えれば、彼らが同時代人だと分かる。(エピソード「ヒロイックファンタジーの主人公になれる日本史上唯一の人物」へ)
新派劇(日清戦争前後に歌舞伎に対しておこった現代劇)と新劇(日露戦争後の西洋の近代劇)の正誤問題がある。新劇の団体に文芸協会(坪内逍遥・島村抱月)と自由劇場(小山内薫)がある。が、新劇の団体は大正時代の小山内薫の築地小劇場が一番メジャー。
7 音楽
作曲家の滝廉太郎より、文部唱歌を選定した伊沢修二が最近出ている。そう言えば、あの「ふるさと」の歌が文部唱歌から消えたそうな。理由は「最近の子どもはウサギなんか追いかけないから」だとか。そんなこと言ったら、僕らが子どもの時だって追いかけてねえよ!歌ってそんなもんじゃないだろう。
8 絵画
ノートは日本画と西洋画を対比して押さえています。日本画関係を青。西洋画関係を赤にしてみました。
日本人はすぐ極端から極端に振れるから、明治当初はみんなで西洋美術に邁進し、フォンタネージ(伊)らの指導のもと工部美術学校ができ、浅井忠(『収穫』)らがでた。
ところが、フェノロサ(米)とその弟子岡倉天心が、日本美術を再評価をすると、工部美術学校を閉鎖。西洋美術を除外した東京美術学校(1887)を設立した(後には西洋画科も増設)。
これに対して浅井忠らが日本最初の洋画団体である明治美術会(1889)を設立。さらにフランス印象派の影響を受けた黒田清輝を中心とする白馬会(1896)ができた。黒田の代表作(『湖畔』『読書』)は、写真とともにチェック。
一方、日本画では岡倉天心を中心に、日本美術院がつくられ、菱田春草(『黒き猫』『落葉』)、横山大観 、下村観山(『大原御幸』)らが世に出た。日本画家では狩野芳崖(『悲母観音』)と橋本雅邦『竜虎図』)は写真とともにチェック。
西洋画家としては、高橋由一の『鮭』と、青木繁の『海の幸』は、写真付きで絶対!
これら日本画と西洋画両方の発表の場となったのが、文展(1907)である。文展は大正期に入り停滞し、帝展(1919)に引き継がれた。
9 彫刻
ラグーザ(伊)の指導。代表作は作者と作品と写真をセットで。高村光雲(『老猿』)、荻原守衛(『女』)、朝倉文夫(『墓守』)が一軍。新海竹太郎の『ゆあみ』も写真ででた。
10 建築
コンドル(神田ニコライ堂)、辰野金吾(東京駅・日本銀行本店)。10歩ぐらい譲って片山東熊(赤坂離宮)か。