エピソード 『無能軍医の言い訳文学? - 森鴎外 -』

  「石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと靜にて、熾熱燈(しねつとう)の光の晴れがましきも徒(いたづら)なり。

 有名な森鴎外(鴎の正しい字がでません。區+鳥です。)のデビュー作『舞姫』の冒頭である。ぼくは高校時代、教科書の『舞姫』で初めて鴎外と出会った。
 森鴎外は文学史上では、夏目漱石とともに反自然主義の2本柱であるが、この『舞姫』はロマン主義に属する。

異郷で芽生え、引き裂かれた恋の悲劇!選ばれてドイツに留学し、踊り子のエリスと恋におちた豊太郎。だが、ふたりの仲が裂かれるときがきた…。」(「BOOK」データベースより)

 豊太郎の子を身ごもったエリスは、別れを伝えられて発狂する。そんな彼女を捨てて豊太郎は日本に帰る。自分のことを案じて二人を別れさせてくれた友人相沢謙吉に感謝しつつも、「我脳裏に一点の彼を憎むこゝろ今日までも残れりけり」という豊太郎の言葉で物語は終わる。 

 この作品が彼の実体験に基づいていることは、よく知られている。そして鴎外の作品には共通のモチーフが流れている。「運命に翻弄される人」である。『高瀬舟』しかり『阿部一族』しかり。彼のキーワードが「諦観」と評されるゆえんであろう。また、俗世間の地位・名誉にとらわれた者を、達観している人物が笑う『寒山拾得』もおもしろい。
 日本を代表する文豪であると同時に、陸軍軍医総監として本業の医者としても頂点を極めた鴎外は、死に際して「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス (略) 墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス」と遺言する。事実、墓石には「森林太郎墓」以外の一字もない。

 自分の立身出世のために愛する女性を捨てたあの日から、彼は周囲の期待に応え続けた。これ以上ないほどの栄誉と肩書きを得た。そして最期に、そのことに対するアンチテーゼのように「森林太郎という一人の人間として死にたい」という。

 何という哀しい美学。高校時代、森鴎外のファンになった。

 ところがである。彼の本を読み、彼のことが分かるにつれて気がついたことがある。

 鴎外の軍医としての無能さとその言い訳癖、そして我田引水的な俗物根性である。

 日清戦争、日露戦争で死亡した陸軍兵士は、清やロシアの銃弾にあたった者の数よりも、脚気(かっけ)で倒れた者のほうが多かった。日露戦争では陸軍の脚気患者は実に25万人、死者は3万人近くに及んだ。
 当時、脚気は原因不明の病気であったが、白米ではなく麦飯を食べる者に脚気を発症する者がいないことは、すでに気付かれていた。そのため海軍は、軍医高木兼寛の勧めを入れて給食に麦飯を使用していた。結果として日清・日露戦争で海軍から脚気患者はほとんど出なかった。しかし、陸軍は「白米至上主義」ともいえる鴎外を中心に「脚気病原菌説」を主張して、海軍の立場に反論。結果として多大な犠牲者を出すことになった。

 鴎外は陸軍軍医総監という、その世界での最高位まで上り詰めたが、医学者としては全くといってよいほど実績がない。論文も、ドイツなどで発表されたものからの引用が目立ち、それもレトリックをいじるばかりで実質的な臨床医学からはかけ離れており、当時から医学界では相手にされていなかったとも言われている。ドイツ留学中も大した業績がなく、強いて言えばその女癖の悪さを発揮して、『舞姫』のネタをつくったぐらいである。(鴎外の女癖の悪さは谷崎潤一郎に匹敵する。)
 また、東京大学とは無関係な高木兼寛が、その東京大学から日本で最初の医学博士の学位を授与され、更に男爵の位を与えられると、東大医学部出身の鴎外は、これを「麦飯博士」とか「麦飯男爵」と揶揄した。
 更に、東大農学部教授であった鈴木梅太郎が「米ヌカから抽出したオリザニン(ビタミンB1)が脚気を予防する」との論文を発表した時は、「百姓学者がなにを言うか、米ヌカが脚気の薬になるなら、馬の小便でも効くだろう」と言ったと伝えられる。

 1912年9月13日、明治天皇の大葬の夜、乃木希典が日露戦争時の二〇三高地で多大な犠牲を出した責を負う形で、婦人とともに殉死した。(遺書には「西南戦争時に連隊旗を奪われたことを償うため」とあった。確かに彼が熊本城の攻防で軍旗を奪われたこと、その時自害しようとして止められたことは事実である。それ以来、乃木は死に場所を探していたとも言われるが、彼がまた二〇三高地の作戦のまずさに責任を痛感していたことも確かである。)そしてこれにショックを受けた鴎外は、『興津弥五右衛門の遺書』を書いたとされる。
 しかし日露戦争における陸軍の苦戦をいうのなら、その最大の責任者は、自己のメンツに固執するあまり脚気で25万人の犠牲者を出し、戦力を大幅に低下させた森鴎外である。実際、日露戦争の終戦直前には、業を煮やした陸軍大臣寺内正毅が、鴎外の頭越しに麦飯の支給を決定している。
 それなのに、鴎外は一切責任を負わず、一方の乃木は死を以て償った。『興津弥五右衛門の遺書』は、乃木を語ったように見せかけた、鴎外の言い訳とも取れる。(乃木は軍事的才能はともかく、漢詩に優れた教養人で、保身を図らぬ清廉潔白な人物であった。)

 また、安楽死の是非を考える題材にもされ、名作といわれる『高瀬舟』にも裏がある。
 次男不律が悪い百日咳で、生後半年で死亡した。さらに感染した長女(森茉莉)が苦しんでいるのを見て、鴎外はこれを安楽死させようとしたのである。この行為は、すんでのところで義父の大審院判事荒木博臣によって止められ、鴎外は激しく非難された。その経験をもとに書かれたのが『高瀬舟』であり、これも鴎外の自己弁護の作品と言える。

 なんだか鴎外は社会的にまずいことが起こると、自分の立場を美化した作品を書いて誤魔化しているような感がある。「ぼくの高校時代のあの感動は何だったんだ!」と叫びたくなる。

 爵位をもらえないことにも反発していた森鴎外は、最期まで自己の誤りも責任も認めることなく、1922年に61歳で世を去った。

 それでも、ぼくは冒頭の『舞姫』だけ(?)は、極めて高く評価している。
 明治という時代になって近代的自我というものを知った者の苦悩を、これほど見事に描いた作品はないと思っている。
 

(追記)
 人間は自らの理想通りの生き方ができるとは限らない。むしろ、できないことに憧れる。世俗の地位や名誉にこだわった俗物鴎外が、そのまったく逆の生き方を讃える『寒山拾得』を書く。
 鴎外と並び称される夏目漱石だって「男に縛られない自立した女性が、これからの理想の姿だ。」と言いながら、本当はそんな女が嫌でたまらなかった。
 まぁ、鴎外は、優れた芸術家が人間性まで優れているとは限らないという、ワーグナーと同じような見本だね。

2005.11.4

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