『近代編後期1 桂園時代と大正政変』


 第10章 近代日本とアジア

【1】 桂園時代と大正政変  (P.121)

 内閣ごとにまとめてみました。
 第2次西園寺内閣までの流れ
 桂園時代というのが、元老山県有朋をバックとする桂太郎と、元老伊藤博文をバックとする第2代立憲政友会総裁の西園寺公望とが、交替で組閣した時代(「蚊野菜」→つら+ま県・い園寺+藤)というのは、いいね。(エピソード「元老と後継者−桂・山県と西園寺・伊藤−』へ)
 
(1)第1次桂内閣のキーワードは何といっても日露戦争。当然、ポーツマス条約も。例の日比谷焼き打ち事件で退陣する。
(2)次の第1次西園寺内閣は、日露戦争後の満州経営がメイン。関東都督府が旅順に置かれ、半官半民の南満州鉄道株式会社が設立される。また、日露戦争後、軍事的・経済的目的から、主要な私鉄17社を買収する鉄道国有法(1906)もこの時である。さらに後で問題となる「帝国国防方針」(1907)が出される。(陸軍の8個師団増設と海軍の八・八艦隊建設を目指すもの。ちなみに八・八艦隊とは戦艦8隻・巡洋艦8隻のことである。)
 最初の合法的社会主義政党であった日本社会党(1906)が結成されたように、西園寺はリベラリストであったが、内閣は皇居前で赤旗が振られた、いわゆる「赤旗事件」(1908)のため退陣。
(3)
第2次桂内閣は、日露戦争後の思想・財政の引き締め日韓併合(1910)でおさえたい。戊申詔書(1908)を出して国民道徳の強化を、地方改良運動を推進して地方財政の強化をそれぞれ図った。
 朝鮮支配のための、政治的組織朝鮮総督府(1910)と経済的組織東洋拓殖(株式)会社はセットで。大逆事件(1910)と工場法(1911)もある。そして、関税自主権の回復に成功した小村寿太郎は、第2次桂内閣の外相だった。

 大正政変
 メインはここから。
 第2次西園寺公望内閣
孫文辛亥革命に危機感を持った陸軍は、朝鮮に駐留させる陸軍の2師団増設要求を行う。これには先述の「帝国国防方針」がからんでいる。しかし、日露戦争後の危機的な経済状態の中、財界の支持もあって西園寺内閣はこれを拒否。これに怒った陸軍は、陸軍大臣上原勇作が単独辞任。後任の陸相を出さなかった。これを「陸軍のストライキ」とも言う。これにより第2次西園寺内閣は、閣僚不在となり退陣を余儀なくされた。なぜ?ここで「魔の制度」と呼ばれた軍部大臣現役武官制(1900年 第2次山県有朋内閣時に制定)がくる。これはポイント!

 この後登場したのが、運命の第3次桂太郎内閣。これに対して、第一次護憲運動おこる。この「第3次桂太郎内閣が、第一次護憲運動で倒れた事件を大正政変(1913) 」という。
 第一次護憲運動のスローガン(「閥族打破憲政擁護」)と中心となった人物と政党名の組合せ(「立憲政友会尾崎行雄」「立憲国民党犬養毅」)は絶対!尾崎行雄の「内閣弾劾演説」の史料も頻出する。

 意外に受験生が混乱するのは、この「第一次護憲運動→大正政変」の結果、政党内閣が誕生したのではないこと。次いだ第一次山本権兵衛内閣は、政友会を与党としたし、議会政治に理解があったけど、政党内閣ではないよ。この第一次山本権兵衛内閣で、「魔の制度」であった「軍部大臣現役武官制」が改正された。内閣は、海軍を巡る汚職事件であるジーメンス事件で退陣するが、これは後に「第2次山本権兵衛内閣が虎の門事件で退陣」するのと、正誤問題に注意。

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