学生時代の記憶なので、間違いがあれば申し訳ない。
劇作家で演劇学の教授だった山崎正和先生(エピソード「世阿弥の奥義ー初心不可忘ー」)が
「日本史上の人物で、もし西洋のヒロイックファンタジーの主人公になれる者がいるとするならば、平知盛 ただ一人」
と言われた。
素晴らしい才能があり、そのことを自覚もしている。しかし、時は平家に味方せず、一族が滅亡の運命にあることにも気付いている。それでも全身全霊をかけて戦い、最後は運命を受け入れて、潔く散っていく。入水にあたって彼が穏やかに言う、
「見るべき程の事は見つ、今は自害せん」
という言葉は、彼の生きざまそのもののようで、荘厳な美しささえ覚える。
「平家物語」のベースには、歴史を動かす大きな力の前には、人ではどうにもならないものがあるという、無常観が流れているとよく言われる。そうして見れば、平知盛こそが『平家物語』とまで思えてくる。
幼い安徳天皇の「どこへ行くの」との問いに、二位の尼(清盛の妻時子)が「波の下にも都のさぶろうぞ」と答える。天皇は東に向かって小さな手を合わせ、西に向かい念仏を唱える。そして彼女が8歳の天皇を抱いて海へ飛び込む場面は、女子生徒のみならず、平家の亡霊たちの涙もさそう(『耳なし芳一』を読んでね)。
引き上げられてしまった建礼門院(清盛の娘徳子。安徳天皇の母)がひっそりと暮らしている所を、後白河法皇がたずねる『平家』のラストシーン、「大原御幸」では、建礼門院が「人は死ねば六道を巡るというが、私は生きながらにして六道を全て見た」という。その話を聞いたあとは、胸が詰まってしまって授業でノートがとれなかったといった生徒もいた。
ああ、それなのに!!
あの
『船弁慶』(舟弁慶)は一体何だ!?。もとは能の脚本(謡曲)だが、現在では河竹黙阿弥作で明治18(1885)年に、9代目市川団十郎によって初演された歌舞伎の方が有名だろうか。(団菊左時代。「明治文化2」参照)「新歌舞伎十八番」の一つにもなっている。 粗筋を本当に雑と言うと
義経は、兄頼朝に疎まれ、都を去って西国に落ちようとする。追ってきた静御前と涙の別れをし、船出する。
ところがにわかに海が荒れ、平知盛の怨霊が襲いかかる。
しかし、弁慶の数珠を押しもんでの調伏に、怨霊は次第に遠ざかって、一行は難を逃れる。
何で知盛が怨霊になるんだ?!
彼は、左遷されたあとも、天皇からもらった衣を抱いて涙を流すような未練がましい奴(菅原道真)ではないし、自ら舌を嚙み切って、血で呪いの文章を書き残すような、怨みに呑み込まれる奴(崇徳上皇)でもなかった。
美しいまでに潔い身の引き方をした知盛が、なんで怨霊になるんだ?
無茶苦茶不愉快じゃ〜!
しかし考え方によっては、作者は平家の代表を清盛でも、重盛、宗盛でもなく知盛としたのである。『平家』=知盛と考えていたのだとすれば、作者もまた知盛を愛する者だったのだろうか。
知盛は、冷静で明晰なその知謀とともに、極めて情に厚い人物だった。平家のことを思えば、あの傲慢で無能で横暴で、反平家感情の35%ぐらいは一人で稼いだんじゃないかとさえ思え、しかも壇の浦では、総大将のくせに自ら入水することもせず、見かねた家臣に海に突き落とされたら、「水練の上手(水泳の達人)」で浮かんでしまって、源氏に引き上げられ、捕まったら命乞いをして顰蹙(ひんしゅく)を買った挙げ句、鎌倉で首をはねられた兄平宗盛を、早い時期にさっさと毒殺でもして、自分が平家を率いていたら、少しは変わった展開になっていたのかもしれない。(言い過ぎか)
しかし、それが出来ないのが、知盛という男であった。33年間の生涯を、曇りのない生き方で駆け抜けた。だからこそ、「日本史上で唯一、ヒロイックファンタジーの主人公になれる人物」なのだ。
(2002.10)