エピソード 「酒と泪と男と開国ー松崎満太郎ー」

 時々、「いや〜、酔っていて全然覚えていないんです。」という言葉を聞く。
 自慢じゃないがぼくは、酔って何をしたか覚えていないということは決してない。酔いが醒めた後、自分が何をしたかはすべて覚えている。ただ、「なぜそんなことをしたかが分からない」だけである。考えようによってはこっちのほうが辛い。冷静になると、頭の中を自己嫌悪のミミズの大軍が4列縦隊でやってくる。しかも昔のことまでしっかり覚えている。

 大学3年生の時、梅田(大阪の中心地)でのコンパの後、石橋駅から下宿への帰り道、ふらついて道端の用水路に左足が落ちた。(今はどうだか知らないが、当時は石橋駅周辺にはまだ水田が残っていた。)ここで普通なら「あ〜あ」と言いながら、左足を引き上げるところだろう。ところが何を思ったのかぼくは、右足も水の中に下ろして、ざぶざぶと用水路を伝って下宿まで帰り、自分の部屋の玄関でそのまま寝てしまった。翌朝、足の冷たさに目を覚まし、「何で俺の足は濡れているんだ?」と思った途端に、すべて思い出した、という具合である。

(ぼくがお世話になった下宿屋には、酒の上での武勇伝を持つ人が多かった。例えば、酔っぱらって夜中に大学の女子寮のフェンスにしがみついて、ガンガンに揺らしながら「○○、好きや〜」と叫びまわったSさんなどがいた。この時、女子寮の電気がまるでドミノ倒しを見るようにすべて灯ったという。今の大学生は下宿と言っても、みんなマンションかアパートを借りると聞くが、下宿屋には下宿屋なりのおもしろさがあった。)

 閑話休題

  歴史上の人物の酒にまつわる逸話は、エピソード編コラムですでにいくつも紹介してきた。しかし、酒の上での話のみで、その名を残した人物がいる。ペリー来航の際、アメリカ特使応接掛に任命された儒学者松崎満太郎である。

 西暦1854年2月13日(和暦嘉永7年1月16日)、ペリーは6隻の軍艦を率いて再び来航、江戸湾に進み、先着のサザンプトン号と合流した。合計7隻の艦隊であった。

 この日松崎満太郎は、儒者林復斎(大学頭、名はあきら=「光」偏に「韋」ですが字がでません)らとともに、アメリカ特使応接掛に任命された。9日後の2月22日(和暦1月25日)にはペリーの副督アダムズと浦賀において会見し、応接地(会談場所)について協議している。(幕府側は2月18日に、浦賀を提案したがペリーに拒否されていた。)
 結局、会談場所は横浜に決定され、3月5日(和暦2月7日)には横浜応接所が完成、応接掛とペリーたちとの正式な会談(第1回日米交渉)は、3月8日(和暦2月10日)に行われた。日本側のメンバーは、林復斎、井戸覚弘(いどさとひろ、対馬守・町奉行)、伊沢政義(美作守・浦賀奉行)、鵜殿長鋭(うどのながとし、民部少輔・目付)松崎満太郎の5人とオランダ通詞(通訳)の森山栄之助らであった。ここから3月31日(和暦3月9日)に日米和親条約が締結されるまでの間、両国の脅しあり、プレゼントあり、饗応ありの激しい駆け引きが展開されることとなる。

 そして第3回交渉(3月24日)を終え、条約締結の見通しのついた3月27日(和暦2月29日)、アメリカ側は日本人約70人を旗艦ポーハタン号に招いた。(ペリーはサスケハナ号からポーハタン号に旗艦を変えていた。) 

 日本側の複数の日記の内容まとめてみると、艦の見学後ポーハタン号甲板で料理が振る舞われた。始めは、牛肉、牛舌、豚肉などの塩煮、その他いろいろな品が出された。様々な種類の酒も出された。料理のうち、牛舌が最もよい味がしたと記されている。また、飲食が進まないとアメリカ人が喜ばなかったので、手真似で腹がふくれたジェスチャーをして、彼らを喜ばせた者もいた。

  アメリカ側の資料には、「バンドの演奏が宴会に活気を与えた。外国人と日本人が分け隔てなく渾然と混ざり、日本人は自席に座っていられなかった。一人が「朝になれば、カルフォルニアと日本が歩調を合わせ相互理解し合うだろう」と乾杯すると、盛んな拍手、喝采を浴びた。皆が愉快なれる場所は何処であろうと事態は楽しく進む。日本人は、宴会にかかった時間の半分も自分の居場所が分からなかったようだ。ワイン、タデイ(TODDY)が洪水のように出されたが、彼らは、実際には酔ってはいなかった。」とある。

 一方、松崎満太郎応接掛はペリー提督の船室で接待された。ペリーは、副督アダムズや各艦長を応接掛と相対して座らせ、秘書として同行させていた息子も同席させて饗宴に及んだ。
 この席で松崎満太郎は、すっかり陽気になってしまい、時には、ペリーを両手で抱きしめたり、伊沢政義(美作守・浦賀奉行)を椅子から追い出したりした。終わりころには、デザートとして日本側各応接掛の家紋つきの小旗が挿されたケーキが出され、日本側を大変喜ばせた。そして、ペリーは将軍の、林大学頭は大統領の健康を祈って乾杯し、その後、応接掛、ペリー、艦隊士官への乾杯が続いた。

 この饗宴の料理や接待について、ペリー自身は次のように記している。

 1854年3月27日 パリ仕込みのコックは、この一週間夜も昼もなく働いて、ニューヨークのデルモニコの料理にもひけをとらない、多種多様の豪華な料理を準備した。交渉が成功したらこういう午餐会を開こうと私は前々から考えていて、そのために牛や羊やさまざまな種類の鳥を生きたまま飼っておいたのである。それとともに、ハム、舌肉、保存用に加工した大量の魚、野菜、果物を用いて、山のような御馳走が作られた。これは日本人だけでなく、客を楽しませるためにパーティーに参加させた、艦隊の士官全員にふるまわれたのである。 もちろん、シャンペンをはじめワインも惜しみなく出された。また、甲板のテーブルには大量にパンチが用意され、船室のテーブルでは委員らのためにほとんどありとあらゆる上等のワインが供されたほか、日本人の好みらしいリキュール、とくにマラスキーノが出された。(中略) 甲板の一団はどんちゃん騒ぎを始めていた。日本人が音頭をとって乾杯をし、「イギリス風に」大声ではやし立てているそばで、二組の楽隊がこれに負けじと大音響を立てていたのだ。 テーブルにはさまざまな料理がふんだんに並べられたが、すべてが魔法のように消えてしまった。食べきれなかった分は、日本人が紙に包んで例の大きなポケットに入れて持ち帰ってしまったからだ。(ペリー著『日本遠征記』より) 

 やがて夕暮れになり退去が近づくころになると、松崎満太郎はペリーの首に両手を廻し、よろよろしながら抱きしめて彼の新品の肩章をつぶすほどだった。そして「日本とアメリカ、みんな同じ心情なのだ」 (Nippon and America, all the same heart )と日本語で繰り返したという。この時、松崎はペリーにキスをし、そのことをペリーは「条約に調印してもらえるならキスぐらいさせてもよい。」と言ったという話もある。

 翌3月28日、第4回交渉が行われ、3月31日、日米和親条約は調印された。

 さて・・・・、松崎満太郎の醜態を笑うことはたやすい。しかし、この後日露和親条約が締結される時、全権川路聖謨(かわじとしあきら)が、着物の前を左右逆にして、つまり死に装束と同じにして臨んだように、交渉は彼らにとって命がけの覚悟を伴うものであったのだ。
 そんな中で幕府にとっては未曾有の国際問題が、平和的に解決に向かうことがはっきりと見えてきたときに起こった、歴史上の一コマであった。

 このあと日本が世界的な帝国主義の潮流の中に投げ出されていくことになるのは、周知のとおりである。
 それでもぼくは、今の日本人は幕末の条約交渉担当者の努力をもっと高く評価すべきだと思う。

2005.6.18

本編へ戻る
エピソード目次へ戻る
トップページへ戻る