『近代編前期2 政局の転換〜幕府の滅亡』

【2】 政局の転換 (P.97〜98)

 ポイントは「安政の大獄→桜田門外の変(井伊直弼)」「公武合体運動(和宮降嫁)→坂下門外の変(安藤信正)」「文久の改革(島津久光)→帰途、生麦事件)」である。

1 安政の大獄→桜田門外の変
 安政の大獄1858〜59)は、病弱であった13代家定の継嗣問題(南紀派=紀州藩主徳川慶福VS一橋派=一橋慶喜。大老に就任した井伊直弼は、14代将軍を紀州藩主徳川慶福に決定した。)をめぐる一橋派の大弾圧。このさなか、慶福は14代徳川家茂となる。この時、弾圧された人物は、余裕があったら覚えて欲しいが、松下村塾の吉田松陰が死罪となったことは知っておきたい。
 そしてこの安政の大獄の報復として元水戸藩士を中心とするグループが、大老井伊直弼を暗殺する桜田門外の変1860)がおこった。現職の大老が暗殺されるという事件に、幕府権威は失墜した。

2 和宮降嫁→坂下門外の変
 桜田門外の変で低下した幕府の威信回復のため、安藤信正は朝幕関係の修復をはかり、和宮降嫁(孝明天皇の妹和宮を14代徳川家茂の夫人にする。丸暗記ネタ。なお、最近は「降嫁」という言葉はあまり使いません。)を実現させた(1861)。和宮降嫁は、安藤信正の公武合体運動の具体策である。
 これに憤慨した尊王派に安藤は襲われ負傷する。これを坂下門外の変1862)という。安藤は辞任した。ところで細かい正誤問題。坂下門外の変で老中安藤信正は死んでいないよ。(しょ〜もな〜。)  (コラム 頂いた質問から(12)『坂下門外の変の背景』へ

 ここまでの政権担当者の変遷(阿部正弘→堀田正睦→井伊直弼→安藤信正)は最重要である。堀田正睦は影が薄いがいるよ。

 さて、このころ大きく分けて2つの派閥があったと考えるとわかりやすい。1つは公武合体派であり、雄藩では薩摩藩、もう1つは尊王攘夷派であり、雄藩では長州藩が代表である。

3 文久の改革
 寺田屋事件(1862)で、藩内の尊王攘夷派を粛正し、藩論を公武合体論で統一した薩摩は、藩主の父親である島津久光が、勅使大原重徳を奉じて、江戸へ入り幕政改革を迫った。これを文久の改革1862)という。
 文久の改革の3つの役職とそれに任命された人物(将軍後見職=一橋慶喜、政事総裁職=松平慶永、京都守護職=松平容保)は正確に押さえる。さらにここで、参勤交代が緩和されている。チェック!参勤交代は「開幕当初にも慣例としては行われていた3代家光の武家諸法度寛永令で制度化8代吉宗の上米で緩和幕府財政が好転した8年後にもとに戻る→文久の改革で3年1勤に軽減」で終わり。
 ここでエピソード。時々、「文久の改革を成功させて、意気揚々と引き上げる島津久光の行列をイギリス人が横切って・・・」とあるが、僕は久光は、意気揚々にはほど遠かったと思う。と言うのは、確かに久光は勅使大原重徳を擁して、要求の大部分を幕府に飲ませたが、彼にとって一番願っていたことは、通らなかった。それは自分の幕政参加。安政の大獄で失脚して、この改革のおかげで要職に復帰したとも言える福井藩主松平慶永(政事総裁職)ですら、久光の幕政参加には反対だった。生麦事件は、その帰途に起こった。

4 攘夷運動から討幕へ
 京都での実権を握ったのは、尊王攘夷派の公家(三条たち)と長州藩であった。彼らは14代将軍家茂に攘夷決行を迫る。家茂は、「外国と戦うなんて無謀な」とは思っていても言えない。なぜなら征夷大将軍とは、夷狄を討つためにあるのだから、「できない」と言うことは、幕府の存在意義そのものを否定することになるからである。
 結局、家茂は上洛して、文久3年5月10日をもって攘夷を決行すると約束させられてしまう。
 ここからは年表形式でまとめてみました。
(1)1863年(文久3年)。5月10日長州藩、下関事件(外国船砲撃事件)→7月、薩英戦争(生麦事件の報復)後、薩摩とイギリス接近→攘夷派の突出を不快とする孝明天皇は、この追放を決定。八月十八日の政変で、「薩摩藩会津藩長州藩三条実美ら尊攘派公家を京都から追放」した。
(2)1864年。池田屋事件(京都での勢力挽回をねらう長州勢を、新撰組が殺傷)を引き金に、禁門の変(この時久坂玄瑞戦死)が起こる。長州敗北→次長州征討。これに便乗して英公使オールコックの主導のもと四国艦隊下関砲撃事件(オイ、アブない=蘭英米仏)が行われる。このダブルパンチに長州恭順。
 1865年はパス。
(3)1866年薩長連合坂本龍馬土佐藩の仲介)→恭順の約束を守らない長州藩に対して次長州征討を起こすが失敗→14代家茂、大坂城で死亡。長州征討中止→15代徳川慶喜就任。
(コラム 頂いた質問から(21) 公武合体論であった薩摩藩は、なぜ倒幕派になったのか

5 幕府の滅亡1867年
(1)10月14日。倒幕派(岩倉具視、薩長)の機先を制して徳川慶喜、大政奉還。(後藤象二郎→山内豊信の土佐藩ラインで提言された。)
(2)討幕の密勅(10月14日)、薩摩藩と長州藩は朝廷から受けたが、大政奉還で空振り
(3)「ええじゃないか」の乱舞が東海・畿内でおこる←伊勢神宮のお札
(4)12月9日、王政復古の大号令(幕府廃止、総裁議定参与三職設置)で新政府樹立。
 しかし、この段階でも徳川慶喜は内大臣であり、また幕領、旗本領合わせて700万石の大大名であり、公議政体論(雄藩連合政権論)のもと、政治に参加する道が残っていた。
(5)
小御所会議(12月9日夜の三職の初会合)政局を担当してきた徳川慶喜の罪を問い、慶喜の「辞官納地」を要求する参与の岩倉具視と、公議政体論者である山内豊信らが激論となったが、岩倉の前に押し切られ、徳川慶喜の「辞官納地」が決定。ここでいう「辞官」とは内大臣を辞すのであって、将軍職ではない。
 この決定に憤った旧幕臣が鳥羽・伏見の戦いを起こし、戊辰戦争が始まることとなる。

 なお、1867年8月以降、伊勢神宮のお札が天から振ってきたと言って人々が踊り狂う「ええじゃないか」という乱舞がおこったが、この混乱の中で倒幕計画が進んだとも言われている。これについて、かつて「えらいこっちゃ」と答えた人がいたが、受験用語だよ。

 また、「薩長=イギリスのパークス  幕府=フランスのロッシュ」という支持の関係は明確に。また孝明天皇は、倒幕には反対だったが、第2次長州征討中に死亡し、幕府側には痛手となった。

(2005.6.18追記)

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