『室町時代編7 室町文化1(南北朝・北山文化)』

【1】 先土器時代 (P.1)(P.55〜58)

 室町文化全体を通しての特徴は、禅宗の影響を受けた武家文化と伝統的な公家文化の融合である。

南北朝文化 (P.55)
 文学が山。『神皇正統記』(北畠親房)は、伊勢神道の理論を背景に南朝の正統を主張した。かつては「後村上天皇に献上された」とされていたが、現在では東国武士、特に結城親朝の説得のため(南朝の味方に付けるため)との説が有力である。(「後村上天皇のために書かれた」という設問があったら、出題者の勉強不足と言えるのではないか。)常陸国小田城で書かれたことは難問。

北朝側梅松論」と「南朝側太平記」は正誤問題。『太平記』の太平記読みが、『平家物語』の平曲と並んで出される。
 連歌は、教科書では庶民文化の項でまとめられているが、時代別に分けた。二条良基の「準勅撰となった連歌集菟玖波集」「連歌の規則書応安新式」は正誤問題注意。
 有職故実書の『建武年中行事』(後醍醐天皇)と『職原抄』(北畠親房)は、鎌倉時代の『禁秘抄』(順徳上皇)などと時代を区別すること。

 アニメ「一休さん」で一休がよく言う「安国寺の一休です」は、尊氏が夢窓疎石の勧めで、南北朝の動乱で死んだ武将の冥福を祈るために建てた。「天竜寺→後醍醐天皇の冥福」とシチュエーションが似ている。
 絵画の黙庵、可翁は難問。
 
 利き酒(ききざけ)ならぬ利き茶、つまり茶のブレンドをあてる博打が闘茶である。内容の理解をしっかり。一橋大学2009年度第1問で、出題されている。もっとも受験では教科書通り「茶の異同を飲み分けて、かけ物を争う勝負ごと」と書いてください。

北山文化 (P.55〜56)
 もちろん、3代足利義満の鹿苑寺金閣に代表される文化。金閣×。あくまで鹿苑寺に金閣という建築物がある。「金閣」→「寝殿造(1F)→ 武家造風(2F)→禅宗様(3F)」も出題される。(2001年成城大学など)
←金閣というと、よくこの角度の写真が撮られ、しかも遊歩道にスペースもあるので、修学旅行へ行った生徒もこの位置から記念写真を撮ることが多い。そのため気付かれにくいのだが

          ↓
←裏に回ると、第1層には釣殿がある。ここからも寝殿造という公家風であることが分かる。第2層は上では武家造と書いたが、実際は寝殿造と書院造の折衷で和様というのがふさわしい。第3層は禅宗様である。
足利義満は、太政大臣となり、さらに妻を天皇の准母(名目上の母)とすることで公家のトップとなり、征夷大将軍として武家のトップとなり、五山の制を整えることで寺社勢力を統制した。まさに国王となった訳だが、この金閣の3層は、公家・武家・寺社という3つの権門を従えた義満の象徴ともいえる。

 五山の制(五山の下に十刹がある)は南宋官寺の制に習ってつくられた。南禅寺が「五山の上」であることはもちろんだが、京都五山(竜寺・相寺・建仁寺・東福寺・万寿寺)の全てと鎌倉五山の上2つ(建長寺・円寺)、そして春屋妙葩を初代とする僧録が管理したことは覚えておきたい。
(学習院大学では、一見「うっ」と思うような五山の問題が出されているが、冷静に読めば「南禅寺+京都五山+北条時頼建長寺北条時宗円覚寺」で解ける。青山学院大学では京都五山を全て書かせているが、鎌倉五山そのものを聞くのはまず見当たらない。これが一般的傾向である。)

 五山の禅僧が幕府の政治・外交顧問であったことは言うまでもない。漢詩文(五山文学)は義堂周信絶海中津の二人をしっかり覚えていれば可。
 ノートには中厳円月を記しているが、これは朱子学の研究にポイントを置いた。のちに藤原惺窩が朱子学を五山から解放するが、それまでは五山の専売特許のようなものだった。

 猿楽能について。大成者が観阿弥世阿弥父子で足利義満が保護したのは、小学校レベル。大和四座(観世・金春・金剛・宝生)は全て出来て欲しいが、座と言うからには本所があり、興福寺である。(かつては大和四座の本所は興福寺と春日神社の2つとされていたが、この時代には春日神社は完全に興福寺に押さえ込まれており、本所としての機能を果たしていない。でも勉強不足の出題ってあるんだよね。)
 能の脚本=謡曲も必須。まして世阿弥の芸術論(脚本ではない!)の『風姿花伝』(花伝書)は、絶対出来なければならない。(エピソード「世阿弥の奥義ー初心不可忘ー」へ)
 能の幕間に演じられた風刺劇を狂言ということは...、もういいね。(エピソード「哀しみと笑いのバランス感覚ー能と狂言ー」へ)

(2013.2.24 金閣及び五山の朱子学の研究に関する記述を加筆)

通史目次へ戻る
トップページへ戻る
室町時代編6『室町時代の外交』へ
室町時代編8『室町文化2(東山文化)』へ