エピソード 『世阿弥の奥義 ー初心不可忘ー 』

 「初心忘るべからず」という言葉を聞いたことがない人は、少ないのではないか。これは世阿弥が『花鏡』の中で述べた言葉である。(一部『風姿花伝』でも触れられているが、世阿弥の真髄が出ているのは『花鏡』のほうである。)しかも、奥義としている。

 これは知っての通り、「新人のころの、あるいは初めのころの感動や純粋な気持ちを忘れずに、ひたむきに物事に取り組め」という意味ではない。

 『花鏡』には次のようにある。

「しかれば当流に万能一徳の一句あり。 初心忘るべからず。この句、三ヶ条の口伝あり。

 是非とも初心忘るべからず(是非によらず、修行を始めたころの初心の芸を忘るべからず )
 時々の初心忘るべからず (修行の各段階ごとに、各々の時期の初心の芸を忘るべからず ) 
 
老後の初心忘るべからず (老後に及んだ後も、老境に入った時の初心の芸を忘るべからず )

 この三、よくよく口伝すべし。」

 初心とは「段階ごとに経験する芸の未熟さ」のことである。初心を忘れたら初心に戻る。未熟な時代の経験、ブザマな失敗やその時の屈辱感を忘れないように、常に自らを戒めれば、上達しようとする姿を保ち続けることができると説いている。初心とは良いものではない。

  修行を始めて数年たったティーン・エイジャーの時は、何をしても「がある」と誉められる。しかしこれは「真の花」ではない。若さが醸し出す言わばルックスの美しさが、欠点を見えなくしている「時分の花」に過ぎない。「真の花」となるには、「初心」を忘れてはならない。

  ところでこの「」とは何だろう。世阿弥は盛んにこの「花」という言葉を使っている。『風姿伝』『鏡』「秘すれば」・・・

  いつも使っているたった一文字なのに、現代語訳の極めて難しい語句であると、僕は思う。

  僕の中の世阿弥のイメージは、山崎正和氏の戯曲『世阿弥で描かれている姿である。高校時代に読んで、こんなにも崇高で美しい生き方があるものかと感動した。

 しかし現実には、寵愛してくれた3代足利義満の死後、世阿弥は不遇を極めた。観世座大夫の地位は甥で養子の音阿弥へ移り、世阿弥は分派を立てる。音阿弥が名声を博したのに対し、世阿弥は、次男の元雅が地方巡業の途中で死亡し、分派観世座は崩壊する。島流しにもなった。『花鏡』はそんな世阿弥晩年の著である。

  ところで『風姿花伝』は長い間知られていなかった。明治42年に世に出て評価されるまで、数百年間まさに秘本・口伝であった。「秘すれば」であったのだろうか。

 世阿弥の時代から約600年。今の時代に、世阿弥の「初心忘るべからず」をあえて一言で表現したら、こんな風になるのかもしれない。

 人間には失敗する権利がある。そして反省する義務がある」 (本田宗一郎)

(2002.10)

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