『室町時代編6 室町時代の外交』

【1】 先土器時代 (P.1)(P.53〜54)

1 日中関係
(1)日元関係
 
室町時代の日中貿易は、元と明の二本立てであることをまず理解していなくてはならない。
 元寇のせいで日本ととの交渉はなかったように錯覚しがちだが、民間の私貿易はしっかり行われている。
 建長寺船鎌倉時代に北条高時が、建長寺の修造費用を得るため派遣。天竜寺船は、南北朝期に足利尊氏直義夢窓疎石の勧めで、後醍醐天皇の冥福を祈るための天竜寺の造営資金を得るために、ともにに派遣した。

(2)倭寇
 倭寇については、前期倭寇と後期倭寇の区別。応仁の乱後のいわゆる後期倭寇の大半は大陸の人が、日本の海賊を装ったものである。日本の船に見せかけるため『八幡大菩薩』の旗を立てていたため、『八幡船』と呼ばれて、恐れられた。

(3)日明貿易 
 大物、日明貿易について。絶対的キーワードは、

3代足利義満が開始4代足利義持が中断6代足利義教が再開

貿易の権利は「幕府→大内氏・博多商人細川氏・堺商人の対立→寧波の乱1523)→大内氏独占(→大内義隆滅亡で終止)

 明は朱元璋が1368年に建国。翌年には大宰府にいた南朝の懐良親王に倭寇の禁圧と朝貢を求めてきたが、成功しなかった。
 貿易は、瑞溪周鳳の『善隣国宝記』に「肥富祖阿に相副へ・・・」とあるように、1401年に義満の側近の僧祖阿が正使(首席の使者)、博多商人肥富が副使(次席の使者)として派遣され、1404年から開始された。
 貿易船は倭寇と区別するために勘合を用いたことは、中学の教科書にも載っている。勘合はスパイ映画にでてくるような小さな札などではなく、縦80pほどの大きな紙である。模造紙(愛媛県では「鳥の子用紙」と呼ばれているやつ)をイメージしてもらえればよい。底簿という台帳は明が持っており、明から発給された。朝貢船と倭寇とを区別するためなのだから、招く明側が発給したのは当然である。

 朝貢形式であったため、交通費も滞在費も全て明負担だったから、貿易の利益は莫大だった。
 書面上、義満は自らを「日本国王臣源」と署名し、明は義満に「日本国王源道義」と呼びかけた。
 実はここにも重要な意味がある。朝貢は一国の王と認められなければ行えない。義満は日本国王と認められてはじめて、朝貢が許されたのである。また、難しいところでは、日本から明への貿易船は「本字勘合」を、反対に明から日本への貿易船は「日字勘合」を携行した。
 つまり、
○将軍の呼称「日本→明=日本国王臣源」、「明→日本=日本国王源道義」
○勘合「日本→明=本字勘合」、「明→日本=日字勘合」である。

 ところで。かつて入試問題で「日明貿易は(  )で査証し、(  )で交易した」という設問があったが、空欄は何?考えたら分かる。査証は入国する場所で行われるのだから、当然寧波。交易は?朝貢なのですよ、名目は。当然、皇帝のいるところ=都=北京です。
 
 4代義持が、日明貿易を中断した理由もよく問われる。「朝貢形式は屈辱と考えたから

 それに対して、

 6代義教は、貿易の利益に注目して1432年、国交を回復し貿易を再開した

  この時、「10年1貢、3隻、300人」という宣徳要約(宣徳条約/永享条約)が結ばれたとされてきた。この年代については、図説や参考書を見ても1433年とするものと1434年とするものがある。しかしその存在そのものを疑う説もあり、そのためか、現在、山川、実教、三省堂、東京書籍など、ほとんどの教科書はこの内容に触れていない。
 ぼく個人としては、存在そのものに疑問がだされている事項については、江戸時代の慶安触書と同様に細かいことは気にしなくてよい=少なくともセンターテスト対策としてはスルーすべきだと考える。
 ここで重要なことは、宣徳要約が西暦何年か、それともなかったのかではなく、なぜこのようなことが言われたのか?
 それが、上述した「朝貢形式であったから、交通費も滞在費も全て明負担」という事実である。貿易の利益に対しても非課税、さらには臣下が貢いだ物に対して君主は10倍返しがマナーであったから、日本の貿易船が押しかければ、明財政は破綻の危機に陥ることになる。「日明貿易は日本に莫大な利益をもたらし、明側に大きな財政負担を与えた」という点は、しっかりとおさえなければならない。
 
 本題に戻ろう。

 「大内氏」「博多商人」「細川氏」「堺商人」の正しい組合せも頻出するが、考えたら分かる。「大内はどこの大名→山口→博多と堺で山口に近いのはどっち→博多」。寧波の場所は地図でチェック。

 貿易品は「ひたすらを売って、銅銭を買った」銅銭の具体名の永楽通宝は猫問。銅銭を購入した理由については、『鎌倉時代編3 武士の生活/地頭の荘園侵略/産業・経済』中の<発展的な内容:銭納(代銭納)が広まった背景>で述べたとおりである。洪武通宝、宣徳通宝は時間があったら覚えて下さい。貿易品で正誤問題が来たら、生糸がポイント。江戸時代初期まで日本はひたすら生糸を輸入していた

 (参考: コラム 頂いた質問から(23)『中世の日本が貨幣を発行しなかった理由』

<発展的な内容:細川氏・大内氏が朝貢船を出せた理由>
 朝貢は、一国の王と認められてはじめて行うことができる。これが冊封体制であり、2012年度のセンター試験でも、この本質が分かっていれば正答を導くことのできた出題があった。なのになぜ、守護大名に過ぎない細川氏や大内氏が勘合船を送ることができたのか
 早い話が、
深刻な財政難に陥った幕府が、勘合を売りに出したからである。時期については、6代将軍足利義教は貿易を再開していたのだから、それより後の時代だと判断できるであろう。8代将軍足利義政の時代であった。
 勘合は中国の皇帝の代替わりごとに100枚、送られた。贋作を防ぐために今でいうシリアルナンバーがうってある。足利義満の時代には1回の派遣で、今の金額にして200億円の利益を上げたと言われるから、足利義教が再開する訳である。当然、義政も朝貢船を送れば同等の利益を上げられたはずなのだが、悲しいかな、そのための朝貢品を整え、朝貢船をしたてる費用すらなかった。そこで、国王である足利家に与えられた勘合を、金のあった有力守護大名や大寺社らに売り出したのである。
 当然、勘合を高額で購入した守護大名や寺社は、遣明船をしたてて我先に貿易に乗り出していく。このことにより明は財政危機に陥り、貿易制限を行うことになった。


日朝関係
 朝鮮を李成桂が建国した1392年は、南北朝合一と同じ年なので、意外と聞かれる。日明貿易と同様、3代義満の時に国交が開かれる。日朝貿易は日明貿易とは違い最初から幕府だけでなく、守護大名や豪族・商人なども参加したため、朝鮮は対馬の宗氏を通して貿易を統制した。
 ここで頻出の正誤問題。「1419年、朝鮮は倭寇の本拠地とみなした対馬を襲撃し、以後日朝貿易は衰退した」答は × 。確かに応永の外寇(1419)で貿易は一時中断したが、すぐに再開されている(嘉吉条約。別名癸亥約条、1443)貿易が衰えるきっかけとなったのは、朝鮮の三浦(富山浦→釜山、乃而浦→薺浦、塩浦→蔚山)に設けられた倭館の日本人が、特権が縮小されることを不満として暴動をおこして鎮圧された三浦の乱(1510)である。
 貿易品のポイントはとにかく木綿を買っていること。輸出品では、やはり銅を売っていたが、琉球との貿易で手に入れた蘇木(染料)や香木(香料)も売っている。これは、正誤問題で問われる。

3 琉球関係
 ポイントを一瞬で。琉球は北山、中山、南山の3つに分かれていたが、1429年に「中山王の尚巴志が統一。琉球王国の王府は首里であって那覇ではない!那覇は貿易港(首里の外港)で、中継貿易で栄えた。」

4 東北・北海道
 「14世紀には畿内と津軽(青森)の十三湊の間で交易」→「蝦夷ケ島と呼ばれた北海道南部へ日本人(和人)進出」→「館という居留地をつくる→道南十二館」
 蝦夷地から畿内へもたらされたのが、昆布だったか甘藷(さつまいも)だったかを判断させる問題が、2013年度のセンター試験で出たが、当然、昆布である。昆布やサケがもたらされた。
 ポイントは何といってもコシャマインの乱(1457)だが、これは江戸時代のシャクシャインの乱とセットで覚える。(アイウエオ順)コシャマインの乱を鎮圧した蠣崎氏は江戸時代には松前氏となった。

(2005.9.18加筆)
(2011.7.25修正)
(2013.2.23 発展的な内容などを加筆)
(2014.11.2 勘合に関する説明を追加)

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