頂いた質問から(23)

中世の日本が貨幣を発行しなかった理由

 3月の末に、来年度受験生となる方から、次のような質問を受け取りました。
 
【いただいた質問の要旨】
 
日本では本朝十二銭以降、銭貨は鋳造されなかった。
 しかし、平安時代末期の平氏政権の時、宋銭が輸入されて使用されるようになった。鎌倉時代には、年貢の銭納が行われるようになり、借上という高利貸しが現われた。室町時代には、日明貿易で大量の明銭が輸入されるようになり、さらに貨幣経済は進んで、酒屋や五山の寺院も金融活動をするようになった。そして銭貨が不足するようになると、私鋳銭が鋳造され使用されるほどになった。
 それほどに貨幣経済が発達したのに、なぜ幕府や朝廷は貨幣を発行しなかったのか。

 実は、これは難しい。
 ぼくは学生時代、先輩から
「中世は、権力が弱かったので全国の鉱山を直轄できなかった。豊臣秀吉や江戸幕府は強力な権力で主要な鉱山を直轄することができたから貨幣を発行することができたのだ」
と教えられた。そして、日本史の教員になって、若い時はこの先輩からの聞きかじりを、したり顔で授業で話したこともあった。
 でも、今、この説を述べている研究者はいないのではないかと思う(ぼくが知らないだけならすみません)。
 以下は今(2023年3月)のぼくの考えである。


【野澤の返答】

 正直に言って、ぼくには本当のところは分からないです。
 個人的には、

銭貨発行はあくまで天皇大権であるという意識があった。その朝廷は、後醍醐天皇を除いてやる気がなかった。
発行益(貨幣をつくるためのコストより、通貨の方が価値が高いことで得られる差益)が見込めなかった。
輸入銭が流通するようになっている中で、見なれない国産の銭貨を発行しても流通させるのが難しいと考えられた。

からだと考えています。以下にそ
の理由を述べます。

 平氏が宋銭を輸入して流通させようとした時、朝廷は反対しました。それは本朝(皇朝)十二銭を最後に、銭貨を鋳造しなくなった後、朝廷は価値の基準を絹にしてきたからです。宋銭が通貨となると絹の価値が下がるためです。
 平氏は後白河法皇の理解を得て、日宋貿易の拡大し、宋銭は畿内を中心に流通するようになりました。このことも朝廷と平氏との確執を深める要因になります。
 その後、平氏と後白河法皇が対立するようになると、再び朝廷では宋銭の流通反対の声が上がるようになり、1179年には後白河法皇も
外国の貨幣である宋銭の流通を禁止する方向に転換しました。
 日本の公権力(朝廷)が発行した銭貨はあくまで本朝十二銭であり、外国の貨幣である銭貨は贋金だというのは、理屈としては通っています。
 平氏が滅亡した後成立した鎌倉幕府は、1192年に絹に準じて宋銭にも公定価格を定めて、宋銭の通貨としての流通を認めます(銭直法)。しかし、その翌年(1193)には、一転して宋銭の使用の停止を命じました。
 権力の方針が二転三転している間に、市場では宋銭の流通が広がります。それは、絹という「物品貨幣」よりも銭の方が便利だからです。また、皆が銭を使うようになると、自分も同じようにしたい、銭を所持したいというのは人情です。
 結果として、1226年、鎌倉幕府は正式に宋銭の使用を認め、その4年後の1230年には、朝廷も認めることとなりました。

 鎌倉幕府が滅亡した後、後醍醐天皇は、銅銭(乾坤通宝)の鋳造を計画しました。価値が高くなった銅銭を朝廷が発行することで、発行益
を得られることを期待したのです。
 このことは、このHPの『鎌倉時代編3 武士の生活/地頭の荘園侵略/産業・経済』の中に<発展的な内容:銭納(代銭納)が広まった背景>という枠をつくって述べています。
 そのなかでぼくは、

 後醍醐の計画は実現せず、国内の銭不足が深刻化する中で登場したのが足利義満であった。彼が朝貢という形で日明貿易を行い、その主たる輸入品が銅銭(明銭)であったのは、
王権たる「通貨発行権」を手に入れることと合わせて、国内の銭不足を効率よく解決するためでもあった。受験上は「日明貿易の輸入品の1位は銅銭」となっているが、銅銭は下賜品であったのだから、購入費はタダであった。

と述べました。
 「王権たる「通貨発行権」」と記したのは、最初に記した「銭貨発行はあくまで天皇大権であるという意識があった」と思うからです。理由は、豊臣秀吉は1587年に天正通宝という本朝十二銭以来の銭貨を鋳造するのですが、「その発行に当たって、後陽成天皇の震筆によった」という伝承もあるのです。この伝承が捏造だったとしても、そういう意識はあったことがわかります。
 また、強力な権力を握った
江戸幕府でも、発行した通貨にはすべて元号を使用しています。教科書には「朝廷は改元も幕府の承認が必要になった」と記されていますが、実際は元和以降、朝廷が伝統的な改元手続によって決定した元号を、幕府が承認して全国に通知しています。
 最初に述べたもう一つの「発行益が見込めなかったからは、日本では10世紀以降、銅生産は衰退しており、14世紀まで銅不足でした。そのため銅貨は通貨以外の需要で輸入されたという説もあります。12~15世紀の日本の青銅製品の原料がほとんど中国産のものであり、それは宋銭の成分と近いことが明らかになったからです。日本では銅不足のため、宋銭の価値より銅そのものの方が価値が高かったのです。
 14世紀になると新たな精錬技術が導入され、銅の国内生産が再開されました。それでも室町時代は
貿易で安価(正規の交易ならタダ)で銭貨が輸入できたので、国産の通貨を発行しても発行益は見込めず、足りない分は民間で私鋳銭が鋳造されたので、公権力が通貨を発行する必要はなかったといえます。
 それに永楽通宝が輸入された時、見なれた宋銭よりサイズが大きかったこともあって不人気でした。実際、永楽通宝は撰銭の対象になっています。それなのに新たな国産の銭貨を発行しても、
見なれた輸入銭のように通用させるのは難しいという判断もあったと思います。

 以上がぼくの考えです。

 
 2023.3.26

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