『飛鳥時代〜奈良時代編2 律令国家の成立と白鳳文化』

【1】 先土器時代 (P.1)P.13〜14)

1 大化の改新と政治の展開
(1)背景

 改新の背景には当時のアジア情勢がある。中国では無理な高句麗遠征などが原因で隋が滅び、唐が成立した(618)。朝鮮半島でも、高句麗、新羅、百済の3国が、それぞれの方法で権力の集中を図っていた。そのような中、日本は強力な中央集権国家建設の必要にせまられていた。
 このような情勢の中で、聖徳太子の子「山背大兄王」を蘇我入鹿が攻め滅ぼすことになる(643)。入鹿は極めて優秀な人物であり、彼なりの国家ビジョンがあった。(エピソード「悲劇の天才−蘇我入鹿の再評価−」へ

(2)皇極天皇の時代
 
645年に起こったとされる乙巳の変(いつしのへん)に尽きる。
 皇極天皇(天智・天武の母)の645年、中大兄皇子中臣鎌足らが飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で、蘇我入鹿を暗殺し、蘇我蝦夷も自害してクーデタは成功する。これを乙巳の変といい、これから始まる一連の政治改革を「大化の改新」と呼んでいる。
 
(3)孝徳天皇の時代
 クーデタ成功後、皇極天皇は退位、孝徳天皇が即位し、都は難波宮、正確には難波長柄豊碕宮に移った。皇太子=中大兄皇子、鎌足=「うちつおみ」(内臣。内大臣でない。)国博士僧旻高向玄理の二人。南淵請安が入っていないことに注意)、左大臣(阿倍内麻呂)、右大臣(蘇我石川麻呂)は確認しておくこと。(ちなみに左大臣は「あべのうちのまろ」つまり阿倍氏の内家の麻呂さんである。彼の名前は麻呂であり、内麻呂ではない。)

 翌年の正月に有名な「改新の詔」が出たとされている。史料は必ずチェック。特に公地公民制への移行にともなう食封の支給は重要。しかし、この詔は実際には出されていないのではないかという意見が、かねてからある。これを「郡評論争」と言う。改新の詔の第2条には、「」という字が使われてる。しかし藤原京から発掘された木簡には、まだ郡を意味する文字として、「」が使われていた。このため、改新の詔は後世の創作ではないかというもの。

 この郡評論争については、ざっと次の3つの意見があると思ってよい。
1 実際に出た説。今でも過去の事を記すときに今使われている文字で記す。(明治時代のことでも「學」は使わず「学」と書く。)同様に、「日本書紀」が記される時代には、「評」でなくて「郡」の文字が使用されるようになっていたので、「郡」の文字で記したに過ぎない。
2 史料の詔のようなきっちりしたものは出てなくても、方針は示されていた説。
3 嘘。「日本書紀」は天皇家の支配の正統性を示すために記されたのだから、これはでっち上げ。

 その他、孝徳天皇の時、東北経営の第一歩として渟足・磐舟の柵が作られた。
 後、中大兄皇子と孝徳天皇が不仲になり、皇子は天皇を難波に残して、文武百官率いて飛鳥に戻った。そして孝徳天皇の死後、皇極上皇が重祚(退位した元天皇の返り咲き)して斉明天皇となった。

(4)斉明天皇の時代
 都は飛鳥に帰っている。(飛鳥川原宮は覚えなくてよい)
 斉明天皇の時のトピックは、660年に百済が滅亡したことである。
 百済救援軍の派遣が決定され、天皇も北九州の朝倉宮に行幸するが、ここで死亡した。額田王の有名な「にぎたつに船乗りせむと・・・」の歌が読まれたのは、この遠征でのことである。
 
また、領域の拡大として、阿倍比羅夫が水軍を率いて秋田地方の蝦夷を服属させた。彼は、越(こし=北陸地方)の国守として津軽の粛慎(みしはせ)も討っているが、これは難問。
 なお、古代史上の悲劇のヒーローの一人有間皇子の変も、この時代のことである。(受験にはまずでない。) 

(5)中大兄皇子の称制時代
 皇太子が、天皇不在であるにもかかわらず、即位せずに政治をとることを称制という。斉明天皇の死後、中大兄皇子が称制する中で、白村江の戦い663)が行われた。結果は、ボロ負け。日本は半島から手を引くことになる。
 白村江の戦いの結果、大宰府防備のために水城や大野城などの朝鮮式山城がつくられる。連絡用に(とぶひ)というのろし台が設けられたりもした。(豪族たちの不満を和らげるために改新の詔で廃止した部曲を復活させたという説もある。)
 皇子は都を飛鳥から防御にすぐれた近江大津宮に移し、ここで即位して天智天皇となった。

(6)天智天皇の時代
 近江令制定(疑いあり)と、最初の全国的戸籍とされる庚午年籍670)作成だが、ともに現存していない。中臣鎌足の死に際して、大織冠と藤原の姓を与えた。これ以降、鎌足の子孫が、藤原姓を名乗ることになる。

(7)壬申の乱
 天智天皇の死後、皇子の大友皇子と弟の大海人皇子との間で壬申の乱(672)がおこり、勝利した大海人皇子飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となる。

(8)天武天皇の時代
 天武朝の基本は、皇族で要職を固める皇親政治。これを体現したものが八色の姓(684)である。最高位の真人は皇族にのみ与えらた。そして実際には上から4つ(真人・朝臣・宿禰・忌寸)しか与えられていない。(窓 『出題ミスから学ぶ−八色の姓−』へ
 「帝紀」「旧辞」の再編纂が行われ、これがのちに「古事記」「日本書紀」として結実する(→飛鳥時代の「天皇記」「国記」との正誤問題あり)。
 また、681年、粟田真人を中心として飛鳥浄御原令が編纂されたとされているが、入試では、次の持統天皇時の施行を聞かれることの方が多い。
 これ以外に、天武天皇は強力は権力を背景に、部曲の廃止、食封の停止を行ったとされる。(難問)

 ここで、論述がある人のために一つ。
天武天皇はなぜ史書の編纂を命じたのか
 これが中国に倣ったものであることは分かると思う。中国には「
易姓革命」(孟子による)という考えがある。
 天帝が地上を治めるべき優れた人物を天子(=皇帝)に選ぶ。天子は徳があり、善政(王道政治)を行うが故に選ばれた。しかし代が移るにつれ、その子孫が悪政(覇道)を行うようになり、民を苦しめるようになると、天帝はその天子を見限り、善政を行える新しい天子を選ぶ。ここに王朝交代が起こる。これが易姓革命である。
 こうなると新しい王朝を建てた者は、自分の支配の正統性を示すため、前の王朝の歴史を記すことが義務のようになる。

 天武は、近江朝を壬申の乱という武力で倒して皇位についた。その
支配の正統性を示すために中国に倣って漢文編年体の史書を編纂しようとしたのである。実際に「帝紀」「旧辞」だけではなく、渡来系の知識人や留学経験者を抜擢し、新羅とも盛んに交流して、史書編纂の知識を得ていた。

(9)持統天皇の時代

 さて、天武天皇の後、皇位についてのは皇后の持統天皇だった。持統は天武の後、自分の息子である草壁皇子を天皇にしたくて、天武の皇子の中で一番優秀だった大津皇子(漢詩で有名)を謀叛の罪で処刑したが、この直後草壁皇子が死亡。そこで孫(後の文武天皇)が成人するまで代行的に即位した。この時代には飛鳥浄御原令が施行689)され、これに基づいて翌年、班田の基本台帳となる庚寅年籍(690)が作られた。そして日本最初の本格的な都城である藤原京が、中国にならって造営された。それまでの都(宮)は、天皇の交代ごとに移っていたが、重要政務を行う恒久的な都城をつくったのである。この藤原京遷都の年代だが、猫でも知っている平安京遷都(794)のちょうど100年前(694)である。発展『なんで飛鳥浄御原令なんかつくったんですか?ー律令国家形成とは何かー』

(10)文武天皇の時代
 
701年の大宝律令制定のみである。律令については、次編で解説。

2 白鳳文化 (P.14)
 天武・持統朝の頃の文化で、中国の初唐文化の影響を受けた「清新な文化」と言われる。
 キーワードは「薬師寺」。代表は薬師寺東塔。一見六重に見えるが裳階(もこし)という庇のようなものをつけているためで、実際は三重の塔である。(薬師寺)金堂薬師三尊像も東院堂聖観音像も、もちろん白鳳文化のものである。

  

 この時代は、仏教興隆が国家的に推進され(国家仏教)、中央には官寺として、大官大寺や薬師寺が建立され、地方豪族も競って寺院を建立した時代であった。

 入試でよく出題されるのは、いわゆる『例外』が多いため。
 「興福寺仏頭」(興福寺は天平文化)、「法隆寺金堂壁画」(法隆寺は飛鳥文化)、「高松塚古墳壁画」(古墳文化ではない。インドのアジャンター石窟寺院壁画の影響という点も問われることがある。)という具合。
 歌人の額田王・柿本人麻呂(「万葉集」は天平文化)もこの時代の人である。

(2003.5.27加筆)
(2005.3.1再加筆)

(2012.11.29加筆)

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