『飛鳥時代〜奈良時代編1 推古朝と飛鳥文化』

 第1章 日本文化のあけぼの

【1】 先土器時代 (P.1)
(P.11〜12)

 いわゆる聖徳太子の時代の話。最近では、「厩戸王(聖徳太子)」という記述が多くみられる。これは「聖徳太子」という名が、彼の存命中に用いられたものではなく、死後100年以上経てからの呼称であることや、聖徳太子という人物そのものの存在の有無が、議論になっているためである。
 混乱をさけるため、ここでは現在教科書の上で、厩戸王(聖徳太子)の業績とされていることをまとめる。

 厩戸王(聖徳太子)は、最初の女帝である推古天皇の甥、用明天皇の第2皇子である。用明天皇が出題されるとしたら、聖徳太子の親父だと言う事だけだろう。当時太子はすでに18歳だったが、平安時代中期以降と違って、当時は未成年の男子が天皇につく事はなかった。
 また女帝が出現する理由として、
(1)皇嗣がいない=孝謙天皇
(2)幼年の皇嗣の成長を待つために代行的に即位=持統・元明・元正天皇
(3)政争緩和の一環として即位=推古・孝謙天皇などがあげられる。

 そして、この時代全体のキーワードは、隋が南北朝を統一し高句麗遠征を開始するといった国際的緊張の中で、日本を含めた周辺諸国は強い国家組織の形成を迫られた。それはすなわち律令国家の形成=中央集権国家の建設であった。

 国際的緊張の中、中央集権国家の建設を目指した。

 この言葉が、飛鳥時代・白鳳時代のすべてを貫いている。ここから始まる約100年間は、改革のエネルギーが吹いた時代である。推古朝の諸政策は、そのスタートとしての事業であった。発展『なんで飛鳥浄御原令なんかつくったんですか?ー律令国家形成とは何かー』

1 推古朝の政治
 592年、推古天皇が即位すると、蘇我馬子と協力して政治にあたった。厩戸王自身、蘇我氏の血を濃く引いている。かつては推古天皇の摂政と言われていたが、今では「摂政」だったとは、高校の教科書はもちろん、小学校の教科書にも書かれていない。それでは簡単にポイントの整理
(1) 冠位十二階603)=人材登用策→一代限りのもので昇進可。
(かつて「遣隋使の小野妹子のかぶっていた冠の色は何色。」という問題がでたことがあった。答えは当時の妹子の冠位が大礼(たいらい)で礼の色が「赤」というものだった。悪問と言っていい。最高位が「」(正確には大徳)で、冠の色がだと知ってれば十分。これは考えればわかる。日本で最も高貴とされた色は、江戸時代の「紫衣事件」を考えればいい。)
 また、蘇我氏には与えられていないことも知っておかなければならない。
(2) 憲法十七条604)=官吏である豪族への政治的・道徳的訓戒→「現在の法のようなものではない」、当然「罰則規定などもない。」
(3) 史書=「天皇記」「国記」の編纂→「帝紀」「旧辞」(古事記の元とされ、天武天皇の時に再編纂された)との正誤問題。
(4) 遣隋使(古代の日中交渉史が史料で出される時は、漢書からこの隋書までで出題されることがある。)=小野妹子→煬帝→答礼使(裴世清)。 「対等外交を主張」したことは小学校で習った通り。煬帝は激怒したが、高句麗と抗争中であり、家臣に説得されて答礼使を送った。(エピソード「恐るべし! 大運河」へ)
 小野妹子が渡った607年、および翌608年の遣隋使は、史料でも確認。答礼使の裴世清は、よく問われた時期もあったが、新課程の教科書では記していないもの方が多い。しかし、出題者が私立大学を目指す人はチェックが必要だろう。かつて、隋書では裴世清の世の字は闕字になっていて「裴清」となっていることまで聞いた大学もあった。
 遣隋使には、伽耶(加羅・任那)回復のための新羅遠征が大きく関係している。最初の遣隋使を送った600年、同時に厩戸王は新羅遠征を企てるが失敗し、朝鮮問題解決の重要性を思い知らされることになった。
 また、留学生のうち、帰国後、大化の改新政府の国博士となったのは、僧旻(留学僧)と高向玄理(留学生)の2人であって、南淵請安(留学僧)がなっていないことは重要。

 この他、594年に仏教興隆の詔を出したとされているが、やや難問。
 ちなみに、憲法十七条も『日本書紀』での捏造だという意見もある。それは、「改新の詔」をめぐる「郡評論争」と同様に、憲法十七条に記されている「国司」という役職は、大宝律令で定められたものであること。また、聖徳太子の伝記資料である『上宮聖徳法王帝説』の中に「冠位十二階」の記述はあっても、憲法十七条は記されていないこと。『日本書紀』と同じ誤字があることなどによる。
 この「聖徳太子」の史料は怪しいという説は、近年になって言われ出したのではない。江戸時代から指摘されている。明治時代の始めに岩倉使節団の一員として欧米に行った久米邦武や、戦前に「記紀の研究」で弾圧された津田左右吉も言っていた。

 anyway,ここで、しっかり理解しておかなければならないことがある。かつて「ヤマト政権は、隋に遣使し対等外交を求めた。」という内容の出題があった。この遣使とはもちろん遣隋使のことである。ここで、「遣隋使は飛鳥時代の出来事だから、ヤマト政権ではない。」として×だと考える受験生がいる。しかし「推古朝はヤマト政権の時代であり、天皇は倭王である。」
 ノートの10ページを見て欲しい。「ヤマト政権の動揺」として、乙巳の変までをあげている。どんなに早くても、いわゆる大化の改新まではヤマト政権である。
 ヤマト政権とは、大王を中心とした豪族の連合政権である。豪族は私有地と私有民を持ち、政権に奉仕する。ではいつまでかというと、「公地公民制となり、豪族が律令官人として国家から給与を得て仕える貴族になるまで」であり、ぼくとしては大宝律令が制定されるまで(飛鳥浄御原令・藤原京」の時代まで)がヤマト政権というイメージを持っている。しかし、律令国家建設に邁進しはじめた天武朝をもってヤマト政権は終了だと考えることもできるし、「改新の詔」が本当に出されていたのならば、さらに前だともいえる。
 しかし、少なくとも推古朝=厩戸王(聖徳太子)の時代は私地私民制のヤマト政権の時代であり、「ヤマト政権は、隋に遣使し対等外交を求めた。」という問題はである。

飛鳥文化
 日本最初の仏教文化であり、中国の南北朝文化の影響を受けている。この南北朝文化については、彫刻のところで関わってくる。

(1)寺院建築
 豪族の権威の象徴が、古墳から寺院へと変わったため、有力な豪族の氏寺がつくられた。寺院については、伽藍配置も要注意。「飛鳥寺式→四天王寺式→法隆寺式→薬師寺式(白鳳文化)→東大寺式→大安寺式(天平文化)」である。はじめは釈迦の遺骨(仏舎利)を収めたとされる塔が中心であったが、次第に本尊をまつる金堂が中心となってゆき、塔の価値観が下がってゆく。そのため「塔が中心にあるほど古い」という原則がわかっていれば、出題は並び替えだから怖くない。

 

 具体的な寺院の出題としては、次のものがある。
@「法隆寺=厩戸王(聖徳太子)ー現存する世界最古の木造建築ーエンタシスの柱(←国際色豊か)」法隆寺再建説の根拠となっている若草伽藍跡は必須。 
A「飛鳥寺=蘇我馬子ー日本最初の寺」
B「広隆寺=秦河勝」

(2)彫刻
 「北魏様式を代表する法隆寺金堂釈迦三尊像(法隆寺の本尊)」と「南梁様式の広隆寺の半跏思惟像(弥勒菩薩像)」は写真でもおさえる。法隆寺金堂釈迦三尊像の作者の鞍作鳥は猫問。かつて「ドイツの哲学者ヤスパースが人類最高の美と称賛したのは?」という出題があった。答えは広隆寺の半跏思惟像。(国宝第1号やからな。)
  後は、一問一答。1つ1つ正確に覚えるしかない。具体的には、「北魏様式=法隆寺夢殿救世観音像、飛鳥寺釈迦如来像」「南梁様式=法隆寺百済観音像、中宮時半跏思惟像(弥勒菩薩像)」である。

(3)絵画・工芸
 「高句麗曇徴紙、絵の具を伝えた」を外したら、出来る問題はない。法隆寺玉虫厨子は写真。中宮寺天寿国繍帳は「聖徳太子の死後、妃が・・・刺繍」がキーワード飛鳥文化の国際性を象徴する忍冬唐草文様もよく出題される。「獅子狩文様錦」は難問。

(4)仏教
 厩戸王(聖徳太子)が記した仏教の注釈書が「三経義疏」である。よく、「三経」か「三教」か字を迷う者がいるが、法華・勝鬘・維摩三経の義疏(注釈書)だということが分かれば、迷うことはない。この中で現存しているのは、法華経義疏だけである。

(5)暦法
 「百済観勒暦法・天文を伝える」も猫でもできる。

なお、正誤問題で多いのは紙・絵の具→高句麗=曇徴」と「暦→百済=観勒」の組合せである

(2003.5.11加筆)
(2005.2.28追加)
(2007.8.18更新)

(2010.6.26加筆)
(2012.12.29追記)
(2014.9.19 答礼使の記述を修正)
(2022.1.19 修正)

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