(P.15〜16)
1 律令の制定
まずは2つの律令から。
(1)大宝律令と養老律令制定の中心人物
@大宝律令=文武天皇(701)・・総裁刑部親王・中心藤原不比等
A養老律令=元正天皇(718)・・藤原不比等
(2)養老律令の内容は、大宝律令と大差なく、すぐには施行されなかった。(約40年後の橘奈良麻呂の変に際して施行)
・律=現在の刑法に相当
・令=行政法・民法に相当
ポイントとしては、「大宝律令は、唐の律令にならいながらも、独自の実情にあわせてつくられている」。そのため、そのため「日本の律・令ともに中国のものとほとんど同じ内容であった。」という頻出の正誤問題の答は、×。
これに関しては、従来(江戸時代以来)、「律は唐律の模倣だが、令は日本の実情にあわせてつくられている」とされてきたが、「律も実情を踏まえて改めた苦労のあとがみられる」という意見が出されており、現在、多くの教科書ではこれに沿うような表現となっている。(例:山川『詳説日本史B』、『高校日本史B』、実教『日本史B』。)
なお、大宝律令は現存せず、養老律令のうち、律は一部が伝わる。令は注釈書である「令義解」や「令集解」によって伝えられる。
2 統治機構
(1) 中央官制
「二官八省一台五衛府」。二官(太政官・神祇官)と一台(弾正台)が言えるのは当然。太政官とは、左大臣・右大臣・大納言・左右弁官・少納言からなる政策決定機関であって、特定の役職を言うのではない。(なお、『太政官』の読み方は、元来は「だいじょうかん」である。明治維新以後、内閣制度発足までの組織が「だじょうかん」と呼ばれた。)
八省は、センターレベルなら、民部省(民政・租税)は絶対。後は出題頻度の順に式部省(教育=大学・国学)、治部省(外交)くらいでO.Kか。僧侶を監督しているところも治部省という問題もかつてあったなぁ。あとはマニア物。
(2) 地方官制
五畿(大和・山城・河内・和泉・摂津)はすべて言えるように(エピソード『Linguaphone Kansaiben』へ)。七道は全部知ってるのが望ましいが、具体的に出題されるのは、西海道と東山道がほとんど。西海道=「大宰府がある九州は古代行政区分で何」と、東山道=「紫香楽宮と近江大津宮がある行政区」。また、「古代宮都の中で畿内になかったもの2つ(近江大津宮と紫香楽宮)」がともに「近江国で東山道」と答えられることが大事。
全国66カ国には、中央から国司が派遣された。国司も「四等官制」(官職は4階級からなっている)だったから、今でいう県知事にあたる守(かみ)から副知事の介(すけ)、さらに下の掾(じょう)、目(さかん)までいた。四等官制の読み方はすべて「かみ」〜「さかん」だが、役職によって漢字が違う。最もよく出題されるのが、今説明した国司で、次が八省の「卿(かみ)」。難問として大宰府の「帥(かみ)」を問う問題があったが、これは菅原道真が左遷された時の官職名が「大宰権帥」だったことを知っていれば推理できる。ちなみに「権官」とは名目だけで実権のない役職をいう。
国司の任期は4〜6年、政庁を国衙といった。これに対し、郡司は旧国造クラスの地方の有力豪族から任命された。任期は終身で世襲制。また50戸を一里として里長を任命した。この戸は行政上の大家族である郷戸50戸をさす。行政上の単位というのは、郷戸単位で班田収授などは行われた。これに対し、生活単位である核家族が房戸。
この時代の国司は、中央政府の監督のもと行政にあたり、税の徴収や文書の作成などの実務は郡司が行っていた。(→10世紀以降の国司の性格の変化との比較のため、しっかり理解しておくように。)
要地には、都に左右の京職。また外国との交流の窓口となった難波には摂津職が置かれたが、これは意外に受験生にとっては盲点となるらしい。外交の窓口兼防衛を担い、「遠の朝廷」ともよばれた大宰府は、猫でもできるだろう。
なお、「太宰府」は地名。役所名は「大宰府」であり、受験で問われるのは100%大宰府だと思って良い。
(3)官職と貴族の特権
位階には30階あってそのうち五位以上が貴族。官職の特徴として最もよく出題されるのが、「高い官職に就くためには、高い位が必要だった=官位相当制」。「貴族の子はやっぱり貴族=蔭位の制」。
そう言えば、『源氏物語』に光源氏が息子の出仕にあたって、蔭位を使わず息子に実力と学力をつけさせようとして、学者たちを感激させるシーンがあったが、裏を返せばいかに皆な蔭位を使っていたかということだね。
貴族は調・庸・雑徭などの税負担を免除されたが、その貴族でさえも大罪とされた八虐は免れなかった。刑罰の五刑(笞でしばく、杖でしばく、徒(懲役刑)、流刑、死刑)と八虐はセットでおさえる。
3 班田収授法
大物、班田収授法について。班田収授と古代の税制度は史料が大切。史料集で確認しておくこと。
例えば
口分田は「男には二段、女は三分の一を減ぜよ」とあるから女は男の3分の2で1段120歩となる。1段は360歩だから2段は720歩。女はその3分の2だから480歩=1段120歩。
さらに続けて「五年以下には給はざれ」とあるから6歳以上ということになる。
この班田収授の基本台帳が戸籍。班田収授が6年ごとだったから戸籍も6年ごとに作られた。
古代の身分制について。人々は大きくわけて良民と賤民にわけられた。大部分の一般農民は良民。賤民(五色の賤=陵戸・官戸・公奴婢・家人・私奴婢)の中で陵戸(天皇陵の番人)、官戸、公奴婢は官有とされ、良民と同じ口分田を支給された。家人など私有の賤民は良民の3分の1の支給。しかし、律令の身分制度は平安時代にはいって崩れ、10世紀の初めに奴婢は廃止されている。(これは中学校の教科書にも載っている。)
口分田を支給して余った土地は乗田といい、代価をとって貸し出された。土地を代価をとって貸し出すことを賃租という。口分田を始めとしてほとんどの田は租を収めなければならない輸租田。後で出てくる荘園も始めは賃租された輸租田だった。不輸租田は寺・神・職の3つだけ。全部「し」がつくね。
田は条里制に区画された。都の「条坊制」との正誤問題にひっかからない。具体的な千鳥式・平行式もたまに出る。易田(やせた土地で隔年しか耕作できないため、2倍支給)、園地(家のまわりの畑)、宅地(屋敷地)は難問。ポイントになるのは、園地、宅地は私有が認められていたということ。つまり、公地公民制のもとでも一般農民が私有を認められた土地があったということ。
班田収授が行われる年を班年というが、班田収授は班年に6歳以上であった男女に対して行われ、次の班年を待って収公された。つまり班年の時に5歳だった子供が、初めて口分田をもらえるのは、11歳の時だし、逆に班年の翌年におじいさんが死んだとしても、その田は次の班年まで収公されなかった。「死者の田は速やかに収公された」という正誤問題は×。
4 民衆の負担
ここは租・庸・調・雑徭という言葉を覚えるだけではなく、その内容を正確に押さえる。
(1)租=1反あたり2束2把の稲を納める。収穫の約3%にあたる。
(2)調=地方の特産物
(3)庸=歳役10日の代わりに布を納める。正丁なら2丈6尺である。
(4)雑徭=国司のもとでの年間60日以内の労役(のち桓武天皇の時、半減されて30日以内となる)
(5)出挙=稲の強制的貸し付け
(6)義倉=元来は飢饉対策。粟を蓄えた。
租が地方財源となり、調・庸が中央財源になったことは頻出。調・庸は中央財源であったからこそ都へ運ぶ必要があった。この運搬も農民の負担であり、運脚という。また、調・庸の基本台帳となったのが計帳。租が田ごとにかかる地代だったのに対して、庸・調は個人にかかる人頭税だった。死者からはとれない。計帳が毎年作成され、しかも黒子の位置など個人的特徴まで記してあったのはそのため。紛らわしいのが「雑徭」と「歳役」。歳役は都で10日間、雑徭は国司のもとで60日以内の労役だった。この歳役を都でつとめるかわりに布を収めたのが庸である。この他、50戸から正丁2人をださせ中央政府の雑用に使役した仕丁という負担もあったが、やや難問である。
正丁、次丁、中男のどこまで税がかかったかを考える時は「割り切れるところまでかかる」と考える。例えば雑徭は正丁が60日、次丁は2分の1の30日、60は4で割り切れる(15)から中男までかかる。逆に庸は元来歳役10日だから、2では割り切れるが、4では割り切れないので中男にはからない。つまり、庸も中男にはかからない。
最近の流行りは出挙と義倉。出挙は国司が行う公出挙(くすいこ)と豪族が行う私出挙(しすいこ)とがあり、公出挙で利稲(利息)は5割(のち3割)、私出挙に至っては10割だったから、租などより遙かに実入りがよかった。義倉は粟を蓄えたのであって米ではない。江戸時代の寛政の改革の時の囲米で、米を蓄えた場所に義倉と言うが、語源はこれ。
兵役について。正丁3人に1人の割合で兵士となり、各地の軍団で交代で服務した。庸・雑徭は免除されたが、食料・武器などは自前であった。この軍団から一部が、衛士や防人となった。
○衛士=都での警備にあたり任期は1年
○防人=九州防衛にあたり任期は3年。はじめは全国の兵士から選ばれたが、730年、東国の兵士に限るようになった。万葉集にある「防人の歌」が東国のものなのはこのためである。
兵士の食料・武器は自前だから、当然、「衛士・防人の食糧・武器などは自前であり、行き帰りの行程は任期に含まれない」は正誤問題でよくでる。(発展 『律令国家の兵役は、なぜ3〜4人に1人なのか』ー東大入試問題に学ぶ 7ー (1999年度第1問)へ)
農民負担は特に史料と計算問題(「この家が負担する租・庸・雑徭はいくらか?」)に注意。
(2004.7.25.加筆)
(2005.10.22更新)
(2012.11.29加筆)
(2017.1.22「律令の制定」部分を改定)
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