エピソード 『悲劇の天才−蘇我入鹿の再評価−』

 日本史の中にもいわゆるスター敵役がいる。「菅原道真藤原時平」、「源義経源頼朝」、「新井白石荻原重秀」、「徳川吉宗徳川宗春」、「松平定信田沼意次」、「西郷隆盛大久保利通」といった調子である。

 そして日本史上、もっとも敵役にされている人物が蘇我入鹿(⇔中大兄皇子、中臣鎌足)であろう。

 有力な皇位継承者であった聖徳太子の子山背大兄王を殺し、最後は大化の改新のクーデタ(乙巳の変)で暗殺された、悪逆非道な人物とされることが多い。
 中には、その父「蝦夷は、天皇の墓にしか使わない陵という言葉を、自らの墓に使い、子どもたちを王子(みこ)と呼ばせた」ような厚顔無恥な人物であり、彼らは「国際情勢が緊迫する中で、国を省みず、自分たちのことしか考えてなかった」ように書いている本まである。

 しかし、高校で日本史を学んでいる者なら、この記述は少しおかしいと気付くはずである。

 財政を担当していた蘇我氏は、最も国際通であり、渡来人との交流も盛んであった。(原始〜奈良時代編5大和政権の政治組織と動揺」参照)その彼らが国際情勢を無視することがあるだろうか。
 事実、蘇我入鹿は帰国した僧が開いた私塾で学んでおり、旻から「うちで一番優秀だ」と絶賛されている。
「旻法師・・・大臣(鎌足)に語りて曰く、吾堂に入る者、宗我大郎(入鹿)に如くものなし」
 しかもこのことは、入鹿を暗殺した中臣鎌足の子孫である藤原氏の歴史書(『藤氏家伝』)に書かれている。鎌足の業績を讃えたい藤原氏も、入鹿が極めて優秀であったことまでは、否定できなかったと言える。

 さらに入鹿をボロクソに書いている『日本書紀』でさえ、
「大臣の児入鹿、更の名は鞍作。自ら国の政を執りて、威(いきおい)父に勝れり。是に由りて、盗賊恐懾(おじひし)げて、路に遺拾(おちものと)らず」
と記している。これは入鹿の恐怖政治と解釈される場合が多いが、果たしてそうだろうか。「盗賊たちでさえ、道の落とし物すら拾わなくなった」というのは、素直に「政治が隅々まで行き届いた結果」と考えるべきではないか。

 そもそも、クーデタの遠因とされる山背大兄王の殺害事件にしても、『日本書紀』などには入鹿が「独り謀りて」とあるが、『藤氏家伝』には軽皇子、巨勢徳太、大伴馬甘らと共に計画したものと記されている。しかも『日本書紀』は、直接山背大兄王を襲撃したのは巨勢徳太だと明記している。
 ならば、クーデタ(乙巳の変)で入鹿が殺された時、彼らも処罰されるべきではないのか。それなのに現実は、軽皇子は孝徳天皇に、巨勢徳太は左大臣に、大伴馬甘も右大臣にと、首謀者たちは皆、改新政府で栄達した。
 入鹿が一連の政変のスケープゴートにされたとまで言わなくても、山背大兄王殺害が、豪族たちの反感を買い、それがクーデタにつながったとは言えないのではないか。

 また、『日本書紀』では「蝦夷・入鹿が、畝傍山の東に武器庫を備えた城を建て、その周囲に外柵を設けたり、池を作るなど外敵からの侵入を防ぐ警備策をとり、蝦夷の家を「上の宮門」(うえのみかど)、入鹿の家を「谷の宮門」(はざまのみかど)と呼ばしめた」ことを、越権行為と非難しており、後世の人からも、自宅を「みかど」と呼ばせるなど言語道断とされてきた。
 しかし、これについても門脇禎二氏が、「緊迫する国際情勢に備え、都である飛鳥自体の防衛機能の強化を図ったのであり、自宅ではなく、都の門として『宮門』と称したと考えて、少しも不思議ではない」と提唱している。

 当時、東アジアでは644年の唐の高句麗遠征開始前後から、戦争に対応できる権力集中体制をつくろうとする動きが次々と起こっていた。
 641年、百済では義慈王が権力を集中した642年、高句麗では宰相の泉(淵)蓋蘇文が王族の多くを殺害し、権力を握った647年、新羅では、女王のもと王族の金春秋(のちの武烈王。新羅による半島統一の立役者)が権力を握った
 仮に山背大兄王殺害が蘇我入鹿の主導であったとしても、彼は国際情勢に備えるため、高句麗型の権力集中を目指したものとらえることができる。(これに対して中大兄皇子は新羅型の権力集中を目指したと言えるが、乙巳の変のストーリーが余りに金春秋の話に似ているため、これは「天智天皇を美化するために、新羅の英雄武烈王の伝記に習った後世の作り話」であり、大化の改新という出来事そのものがなかったという説まである。)

 こうして見ていくと、蘇我入鹿は悪逆非道どころか、極めて有能な天才政治家であり、落ち度があったのではなく、政界の主導権争いに、暗殺という悲劇的な形で敗れたに過ぎないということになる。(そもそも入鹿という名自体が後世つけられた蔑称であり、本名は大郎鞍作(たろうくらづくり)である。)

 勝者が自己を正当化するために、敗者や前任者を誹謗することはよくある。歴史を学ぶ者は、そのことをよくわきまえた上で、フェアな視点を持たなくてはならない。

 乙巳の変の真相は今だに分からない。

 しかし、蘇我氏が欽明朝に採用した屯倉の管理方式や、推古朝における官司制の整備から見ても、彼らは国家体制強化へのビジョンを持っていたと言える。事実、改新政府も蘇我氏の政治的業績の全面否定といった政策はとっていない。
 少なくとも、蘇我氏が改新政治の先駆的な政策を実行していたことは明らかであり、蝦夷・入鹿の死によって、全く新たな政策が「0」からスタートしたのではないことだけは確かである。

 (2003.5.11)

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