『原始〜ヤマト政権編4 古墳とヤマト政権(1)』

【5】 古墳とヤマト政権(P.7〜10)

1 古墳の編年表
 古墳時代は大きく分けて、前期・中期・後期の3つに分かれる。一番の基本は、「中期5世紀ごろ大和政権全盛大山陵古墳(伝仁徳天皇陵)に代表される巨大な前方後円墳」ただし、「前方後円墳そのものは、前期からある」。
 後はいわゆる「流れ者」です。 前期→中期→後期の順に、
石室=「竪→竪→横(穴式石室)」
埴輪=「円筒→形象→形象(畿内では減少)」
副葬品=「呪術的→武器→農具」
 後期は豪族だけではなく、有力な農民も古墳をつくれるようになった時代だから小さな円墳が数多く集まった群集墳が見られる。これは、ヤマト政権が台頭してきた有力農民を支配下に組み込もうとしたと考えられる。
 ところで玄室に絵のある古墳を装飾古墳と言うが、その代表である「高松塚古墳」はいつの時代のもの?答、白鳳文化(天武・持統天皇の時代)。と言うことは、「仏教が伝来した後も古墳はつくられている
 他にポイントとしては「古墳の表面には葺石が敷かれ、上や周りには埴輪がおかれた。」。よく「古墳の上には樹木が植えられた。」という正誤問題を見るが、これは×。樹木は後で勝手にはえた。 

   

 代表的な古墳としては、
○前期=箸墓古墳(奈良県桜井市。前方後円墳。卑弥呼の墓説あり。出現期の古墳。日本書紀に「昼は人が造 り、夜は神が造った」)→前方後円墳は前期からある!
 
箸墓古墳を含む纏向遺跡は三輪山(このページの最後の「神社」参照)の北西麓にあり、邪馬台国の候補地とされている。

 この3世紀半ばに西日本に出現した古墳は、地域が異なっていても共通する規格で造られている。これは、西日本では3世紀半ばには、古墳の出現に先立って、広域の政治連合が形成されていたと考えられる。(→発展 『大型墳丘墓と出現期の前方後円墳の形の意味』) 

○中期=大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵。日本最大486m):大阪府堺市にある百舌鳥古墳群。誉田山古墳(伝応神天皇陵):大阪府羽曳野市・藤井寺市にある古市古墳群。
 造山古墳(岡山県)→ポピュラーな正誤問題として「巨大な前方後円墳は、畿内に限られている。」というのもあるが、これはもちろん×である。

○後期=石舞台古墳(奈良県。蘇我馬子の墓説)
      吉見百穴(埼玉県)、岩橋千塚(和歌山県)、新沢千塚(奈良県)=群集墳 (エピソード「春は墓場で・・・」へ
      高松塚古墳(奈良県)→石室(横穴式石室の棺を納める場所を玄室、通路を羨道という)に壁画がある装飾古墳の代表。1972年に壁画が発見されたことを現代史から問う場合もある。


2 渡来人
 大陸から渡来し、新しい技術を伝えた彼らは、技術者集団に組織された。韓鍛冶部、錦織部、鞍作部などがその代表である。(テーマ史 来日外国人参照)
 代表的な渡来人は、語呂合わせで、「誰が何して何氏の祖か」をセットで。
「ワニ、趣味機織り、あっちは東」→「わにしゅみはたおり、あっちはひがし」→「王仁西文、月君=阿知使主=漢」
 西文氏の祖となった王仁は、論語・千字文を伝えたとされるがこれは多分に氏族伝説。弓月君は秦(はた)氏で、そのまま機織り・養蚕を伝えたとされている。

3 漢字の使用例
埼玉県荷山古墳出土鉄剣銘」と「熊本県江田船山古墳出土太刀銘」はよく出る。「ワカタケル」が倭王武すなわち雄略天皇をさしていると考えられ、5世紀末には「大和政権の勢力範囲は、九州の熊本から関東の埼玉までは及んでいたということを示す」から。
 「隅田八幡宮人物画像鏡(和歌山県)」は出るとすれば万葉仮名がキーワード。「石上神社七支刀銘(奈良県)」は百済との関係で聞かれることがある。

4 儒教
 五経博士百済から儒教や医・易・暦などの学術を伝えた。」と教科書にある。これが分かりにくいのではないか。五経博士とは本来、中国古代の官職の一つで、儒家の経典である五経(詩・書・礼・易・春秋)を教学する学官であった。百済もこの官職を設けており、6世紀に交代で来日し、儒教や学術を伝えたのである。
 なお、仏教と儒教の伝来はどちらが先かという、細かい問いがあったが、五経博士の来日は、加羅4県を百済に割譲(512年)の見返りだとされ、最初の来日は翌513年である。
 仏教伝来は、次に記すように538年説が有力であり、儒教の伝来が先となる。

5 仏教伝来
 仏教伝来は重要。伝えたのは百済」の「聖明王」から「欽明天皇」へ。五経博士も、飛鳥時代に暦を伝えた「観勒」も百済。基本的に、「新羅からというのはない」と思ってよい。
 538年説
の根拠である聖徳太子の伝記『上宮聖徳法王帝説』は絶対。『元興寺縁起』も根拠となっている。
 552年説の『日本書紀』を出題する大学もないとはいえないが、誤っていると考えられている説の根拠を敢えて受験生に聞くとすれば、出題者(大学)の良識を問いたい。
 崇仏論争については次章の「大和政権の動揺」参照。 仏教私伝として「渡来人司馬達等が密かに仏教を信仰していたと『扶桑略記』に書かれている」はやや難問。

6 帝紀・旧辞の編纂
 
これについては、天平文化の「古事記・日本書紀」を参照。要は、稗田阿礼が読み習ったとされる「帝紀・旧辞」は、この時代に編纂されたと考えられている。

7 生活と信仰
(1)住居
  この時代も一般庶民はやはり竪穴住居。ただこのころから「方形で隅にかまど」となる
(2) 土器
 「弥生土器の系譜をひいた土師器」と「朝鮮系の須恵器」の2種類。ともに専門の職人がつくった。それぞれ土師部と陶部(すえつくりべ)。須恵器(硬質、灰色の土器)は朝鮮系だから、陶部は当然渡来系の品部。(品部は次項「大和政権の政治組織」参照)時々、「須恵器は弥生時代からあった」(×)という正誤問題があるが、「土師器が弥生土器の後釜であり、その土師器と須恵器が同時代」であることを考えればひっかからない。
(3) 習俗・信仰
 「太占(の法)「盟神探湯」の正誤問題が頻出。キーワードは「太占吉凶を占う」「盟神探湯熱湯、真偽を判断」である。(エピソード「西暦415年の盟神探湯」へ
祈年祭=春に豊作を祈る」と「新嘗祭=秋に収穫を感謝する」は一時期流行った。「禊」「祓」は書けなくてもいいと思う。氏神信仰→産土神は難問である。
(4) 神社
 要はこの時代、農耕に関する儀式が始まり、それを受けて神社が成立した。その代表が「伊勢神宮=神明造」と「出雲大社=大社造り」だということ。建物の横から拝めば神明造、縦から拝めば大社造。
 また、三輪山を神体として拝殿のみがある奈良県の大神神社(おおみわじんじゃ)も問われることがある。かつて「海のシルクロード」で玄界灘に浮かぶ沖ノ島を選ばせる出題があったなあ。

(2003.4.28改訂)
(2005.2.27修正)

(2007.5.12加筆)
(2010.3.2改訂)
(2012.11.29追記)

(2022.6.27モズ古墳群・古市古墳群の部分を修正)
(2024.5.2 3世紀半ばに西日本に出現した古墳について加筆)

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