8 ヤマト政権の政治組織
大和政権の政治組織は、はっきり言って「氏姓制度」と「部民制」である。
(1) 氏姓制度
この時代の豪族は「氏」とよばれる血縁的共同体からなっていた。氏は共通の祖先を持つと考えていて、現在の我々の名字を思い浮かべるといい。一族の統率者が氏上で、構成員が氏人。氏上は一族の「氏神」を祀る役割も持ってた。
「姓」は大王から与えられた社会的地位を示す称号で、今の姓名ではない。混同しないように。
特に大切なのが、中央つまり大和地方の有力豪族に与えられた「臣」と、特殊職能を持つ豪族に与えられた「連」。例えば有名な物部氏や大伴氏は軍事、つまり戦争のプロという特殊職能で大王(おおきみ)に奉仕した。蘇我氏や物部氏の姓はあくまで「臣」「連」。彼らは特に有力だったので「大臣」とか「大連」とか呼ばれただけ。
「臣」を与えられた代表的な豪族は、蘇我氏の他、平群氏や葛城氏であり、今でも地名で残っている。例外として地方豪族である吉備氏・出雲氏も特別に臣を与えられているが、基本はあくまで大和地方の有力豪族が臣である。
蘇我氏が財政を担当していたことまでは知っておきたい。三蔵(大蔵・内蔵・斎蔵(いみくら))を管理したことまで分かっていれば素晴らしい。そのため渡来人とも交流が深く、豪族きっての国際通であった。
政権は服属した地方豪族に「国造や県主という地位」を与えて地方を支配させた。ここでポイントは、「国造や県主は地位であって、姓ではない。」彼らの姓はあくまでも、地方豪族として君とか直である。
(2) 部民制
のちの公地公民制に対する言葉として「私地私民制」という。用語と内容を正確に覚える。
「ごうぞく(豪族)→かきべ(部曲=私有民)/たどころ(田荘=私有地)」
「せいけん・ちょうてい・こうしつ(政権・朝廷・皇室)→こしろ・なしろ(子代・名代=直轄民)/みやけ(屯倉=直轄地)」
である。屯倉の耕作者を「たべ(田部)」と言って、これだけ清濁合わせにならないが、御愛嬌だと思って欲しい。
部民(半隷属民)と奴(奴碑)(隷属民・家内奴隷)との違いは、部民は移動や主人を変える自由はないが、家族を持つ自由がある。それに対して奴は完全に売買の対象であって、「もの」扱いだと思うといい。
受験生にとって分かりにくいのが、伴造・品部ではないか。この品部については、現在2つの考えがある。
一つは、品部は、部曲と同格の部民ではあるが、違いは特殊技能集団であるとする考えである。ノートには品部の例として、出題頻度の高い「渡来系」のものを3つ(「陶部=すえつくりべ」「錦織部=にしごりべ」「韓鍛冶部=からかぬちべ」)あげているが、このような農業などではなく、特殊な技能を持つ者が品部という考えである。
そして、この品部をまとめるのが伴、そのリーダーが伴造となり、入試では、「( )が率いて朝廷に奉仕」という形で出題される。この形では、「物部氏や大伴氏は、軍事という特殊職能でもって、配下の伴や品部を率いて朝廷に奉仕する伴造系の豪族であって、収入は自分たちの田荘を部曲に耕作させて得ている。」ということになる。
(なお、かつて京都の某私大で「からかぬちべ」などの読み方を問う出題もでた。また、「鞍作部」が渡来系かどうかを判断させる問題もあったが、飛鳥彫刻の有名な仏師である鞍作鳥が、渡来人の子孫であることを考えれば分かる。
)
もう一つは、部曲と品部の違いは、ヤマト政権に属しているか、豪族に属しているかの違いであり、内容に差はないという考え方である。ヤマト政権に属し、農業をはじめ、漁業や各種の手工業に従事する部民の総称が品部。部曲は、豪族に属していることが異なるだけで、やっていることは品部と同じ。さらに大王家に属する部民が名代・小代の部という考え方である。
ただし、
9 ヤマト政権の動揺
正直に言って、このノートの中でここが最もまとまりのないところでしょう 。すみません。ポイントは大和政権の権力闘争の流れ。
(1) 継体天皇
「大伴金村が継体天皇を擁立して権力を握る」→「大伴金村、伽耶(加羅・任那)4県を百済に割譲(512年)→これを物部尾輿に弾劾されて失脚(540年)→こののち伽耶滅亡(ごろにゃ〜ん=562年=欽明朝)」
一方、「物部氏、物部あら(すみません。アラという字がでない)鹿火が新羅と結んだ筑紫の国造磐井の乱(527)を鎮圧して台頭」
(2) 欽明天皇
「仏教伝来→崇仏論争=蘇我氏(稲目)と物部氏(尾輿)が対立」
「伽耶滅亡」
(3) 用明天皇
「崇仏論争決着→稲目、尾輿の息子の代に「蘇我馬子が物部守屋を滅亡させ」て決着
(4) 崇峻天皇
「蘇我馬子、対立した崇峻天皇を暗殺」→「最初の女帝推古天皇即位」
早い話が、「大伴氏→物部氏→蘇我氏」と権力は移った。
大伴金村が失脚した原因が、伽耶4県の百済への割譲だったことは必須。でもその年代を実はぼくは覚えてない。ただ滅亡した年を、「ごろにゃ〜ん=562」というのを覚えていて、50年引いてます。
欽明天皇は、仏教伝来以外では出題されない。用明天皇が出るとしたら、聖徳太子の親父だということだけだろう。
また崇仏論争の時、排仏派には物部尾輿の他に、中臣鎌足のお父さんである中臣鎌子がいた。理由は「中臣氏が祭祀を担当」する豪族だったから。他の神様が主流になったら失業するもんね。
磐井の墓は福岡県の岩戸山古墳。キーワードは朝鮮式の「石人・石馬が並べられている」です。(エピソード「いいのか!?石人・石馬」へ)
(2003.5.11加筆)
(2005.2.27修正)
(2010.3.2改訂)
(2012.11.29図を追加)
2016.6.30 部民制を加筆・修正
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