(P.5〜6)
中国史料から見る日本史ということでまとめてみた。(好太王碑文は金石文だが)
まず基本中の基本。
「漢書・後漢書・魏志に記されている日本は、弥生時代」
「好太王碑文と宋書はヤマト政権」
ただし、卑弥呼の邪馬台国の時代は、もう弥生時代の終盤というよりも、古墳の出現期にあたると考えられるようになっている(後述)。
この項目は、とにかく史料とその内容をいかにつかんでいるかが勝負。史料のポイント編を参考にしてください。
最初に理解しておかなければならないのは、冊封体制の意味である。「朝貢することによって、臣下として認めてもらう。」この関係を冊封体制というが、誰でも朝貢すれば臣下として認められる訳ではない。中国皇帝に、1国の王と認められた者だけが朝貢を許され冊封を受けることが出来るのである。だからこそ、「中国皇帝の権威を借りる」ということになるのである。
1「漢書地理志」→「紀元前1世紀」
@百余国に分立
A楽浪郡に定期的に朝貢
2 「後漢書東夷伝」は注意が必要。あのわずか6行の史料の中に、3つの時代が記されている。
@1世紀後半(57年)=倭の奴国王が光武帝に朝貢して、金印をもらった→「福岡県志賀島」から「漢委奴国王」
A2世紀前半(107年)=倭国王「帥升」が「生口」という奴隷を献上した。
B2世紀後半(桓霊の間)=倭国大乱となった→この時代に防御的機能をもった「高地性集落」や「環濠集落」がつくられた。
3 「魏志倭人伝」→「3世紀」
@「邪馬台国」→「九州説」と「近畿説」 (ちなみに、九州にあったのなら、3世紀前半の日本は、たかだか九州がまとまっていたに過ぎないが、畿内にあったのなら、西日本は対抗勢力はあるにせよ、統一に向かっていたことになる。)
A卑弥呼=「シャーマン的君主」。「鬼道」といわれる呪術で政治。高齢で「弟が補佐」(結婚していないことは、彼女がシャーマン=巫女であったことを考えれば分かる。)(エピソード「成都旅情」へ)
B社会=「大人ー下戸ー奴婢」という身分。「一大率」という役所→諸国を検察。
C外交=239年、卑弥呼が「帯方郡」経由で洛陽へ→「親魏倭王」の称号と銅鏡。卑弥呼の死後、壱与が西晋へ(266年)。この後、倭の五王の遣使まで約150年間、倭の関する記載は中国の史書から姿を消す。
ここでポイント!「漢書は楽浪郡」「魏志は帯方郡」
※この、「漢書」・「後漢書」・「魏志」に共通する遣使の目的は、先進文化の導入とともに、「中国の権威を背景に国内での立場を有利にするため。」
『詳説日本史』(山川出版社)では、『2 農耕社会の成立』という弥生文化の単元を設けて、「弥生文化の成立」→「弥生人の生活」→「小国の分立」→「邪馬台国連合」という小単元を構成している。そして、続く『3 古墳とヤマト政権』という単元の最初に、「古墳の出現とヤマト政権」という小単元をたてて、古墳の出現期の最大の前方後円墳として箸墓古墳を紹介している。 この流れに沿えば、「邪馬台国は弥生時代」の内容であり、その後に「古墳とヤマト政権」の時代がくると理解するのが妥当である。ただし、同じ『詳説日本史』には、「古墳が営まれた3世紀中頃から7世紀を古墳時代と呼び、」とも書かれている。古墳時代のスタートになる3世紀中頃は卑弥呼が死亡したと考えられる時期である。これに基づけば、邪馬台国は弥生時代というよりも、古墳の出現期ととらえるべきであり、実際、そのような考えが多くなっている。 ところで、教科書(『詳説日本史』)にも書かれているように、この箸墓古墳の北方にある纒向遺跡(まきむくいせき)から、3世紀前半頃の整然と配置された大型建物跡が発見されている。3世紀前半というのは、『魏志倭人伝』に記されている邪馬台国の時代である。箸墓古墳は、3世紀後半から4世紀に築造されたと考えられていたが、2009年の日本考古学協会総会において、周囲に掘られた壕から発掘された土器の炭素14年代測定法から、箸墓古墳の築造年代は240〜260年という発表が行われたのである。この年代が正確のものであり、箸墓古墳が3世紀の中ごろに築造されたのだとしたら、「纒向遺跡は邪馬台国で、箸墓古墳は卑弥呼の墓」という推測が成り立つことになる。しかし、箸墓古墳は宮内庁に陵墓として管理されており、研究者でもなかに入ることが出来ないため、正確な築造時期は、いまだにわかっていない。 また、仮に箸墓古墳が3世紀半ばの築造であったとしても、話はそんなに単純なものではない。まず、箸墓古墳が邪馬台国の時期のものであったとしても、卑弥呼の墓だとは限らない。それに、箸墓古墳のことは『日本書紀』に書かれているが、卑弥呼と邪馬台国のことは、『日本書紀』にも『古事記』にも書かれていない。箸墓古墳を卑弥呼の墓とするためには、まだまだクリアしなければならないハードルは、いくつも残されている。 (2020.1.1 加筆) |
4 「高句麗好太王碑文」→「4世紀」
@目的=鉄資源の確保
A朝鮮半島の国の配置も押さえておきたい。辰韓→新羅。弁韓→加羅。馬韓→百済(順に「辰韓・弁韓・いやん馬韓」という)
B碑は鴨緑江のほとりの丸都にある。現在は中国領。
5 「宋書倭国伝」→「5世紀」
@倭の五王(讃・珍・済・興・武)が相次いで遣使
A「倭王武」=雄略天皇(エピソード「雄略天皇のナンパと『千と千尋』の共通点」へ)
B「倭王武の上表文」=「478年」
なお、興が安康天皇だということまで聞かれることがある。
※朝貢の目的は「中国の権威を背景として、朝鮮半島経営を有利に展開しようとしたため。」
ここが弥生時代の遣使との大きな違いである。なお「朝鮮半島経営を有利に展開する」とは、「朝鮮半島における政治的・軍事的立場を有利にする」 という意味である。
教科書に掲載される上表文の史料は、「興死して弟武立つ。自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王と称す。」から始まり、「詔して武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王に除す。」までである。
武は、高句麗の無道を責めて、七国諸軍事安東大将軍に任命されることを望んでいたが、認められたのは六国であった。認められなかったのは百済である。歴代の倭王は、都督百済を求めていたが、認められなかった。その理由については、諸説ある(本気で高句麗を攻撃する気があったのかはわからないが、倭王武は高句麗を討伐したいので、力添えをしてほしいと訴えている)。
なお、教科書には記されていないが、倭王は高い官爵を求めるとともに、自らを介して主だった部下にも宋の官爵を与えようとしている。部下に対する求心力の強化にも利用していたことがわかる。
また、「倭王興」が安康天皇だったことも出題される。
この時代には王は男子となり、卑弥呼のようなシャーマン的な君主から軍事的な支配者になった。古墳文化全盛。
2003.5.5改訂
2012.11.29加筆
2020.1.1 「邪馬台国の出現期」を加筆
2024.4.16 倭王武の上表文について加筆
通史目次へ戻る
目次(トップページ)へ戻る
原始〜ヤマト政権編2『弥生文化』へ
原始〜ヤマト政権編4『古墳と大和政権(1)』へ