発展 『大型墳丘墓と出現期の前方後円墳の形の意味』

 弥生時代には、盛り土をした墓が各地に造られている。甕棺墓、支石墓(北九州)、方形周溝墓(近畿、東海・北陸地方など)、楯築墳丘墓(岡山)、四隅突出型墳丘墓(山陰地方)など形がバラバラである。
 四隅突出型墳丘墓は、山川の『詳説日本史』『詳説日本史探究』の教科書では、本文に黒ゴチで山陰地方と記されている。それに対して、実教の教科書では、「弥生後期の山陰や北陸」と書かれている。
 そして実教の教科書には「社会の変化にともなって、集団内では身分の差が明らかになってきた。共同墓地のなかに青銅鏡や鉄剣など、貴重な副葬品をともなう有力者の墓があらわれた。さらに後期には、直径または一辺の長さが30~50mもある円形や方形の大型墳丘墓が各地に築かれ、その中央に副葬品をそえて手厚く葬られる人物も出現した。大型墳丘墓の被葬者は小国の王と考えられる。」とあり、時系列が分かりやすい。
 下の図は、富山市民俗民芸考古資料館のパネルをもとに作成した「弥生時代の墳墓の分布図」である。教科書には載っていない形状もあり、バラバラであることが分かる。だからぼくは、大切なのは「どこに何という形の墳丘墓があるか」ではなく、形状がバラバラであったことから、各地に小国の王がいたことを理解することだと思う。


 それに対して3世紀半ばに西日本に出現した古墳は、地域が異なっていても共通する規格で造られていることが、下の資料から読み取れる。.


 大きさは違っていても、前方部と後円部の比率は約1:1、さらに天端の4倍が全長の長さである。
 当たり前のことだが、墓をどうするかは造る前に決めるものである。だから、3世紀半ばには、古墳が造られる前に、西日本では広域の政治連合が形成されていたことが分かる。

(2024.5.3)

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