発展 『教科書の盲点ーNHKドラマの主人公 吉備真備と遣唐使ー』

    ー東大入試問題に学ぶ 6ー
 (1997年度第1問の設問A)


 2010年4月、NHKドラマ『大仏開眼』が放送された(再放送は10月)。NHK大阪放送局による「古代史ドラマスペシャル」の第3弾である。1作目の『聖徳太子』(2001年)、2作目の『大化改新』(2005年)もとてもよくできていたが、今回驚いたのは、主人公に吉備真備を据えたことであった。
 聖徳太子(厩戸王)を知らない人はいないだろうし、大化改新を聞いたことがない人も少ないと思う。そして「奈良の大仏」もよく知られているが、吉備真備自身はどうなのだろう。
 やはりと言うか、インターネット上の「○○知恵袋」への質問として「NHK古代史ドラマの大仏開眼の吉備真備さんは歴史上の有名な人物なんですか?」という質問が掲載され、回答者は「超有名人だ。聖武天皇より有名だ。」と答えてはいるものの、当のドラマスタッフに「皆さんは吉備真備っていう人をご存知ですか?もし知っていれば、かなりの歴史通か、日本史大好きな方でしょうね。」とブログに書かれている。
 「○○知恵袋」への回答者さんには悪いが、ドラマスタッフの意見が一般的だと思う。

 日本史の受験生にとってさえ、「遣唐使帰りで、橘諸兄政権下で僧玄ムとともに重用され、その排斥を訴えて藤原広嗣の乱が起こった。遣隋使帰りの高向玄理と僧旻は大化改新で国博士であり、引っかけ問題に注意。」というぐらいだろう。ぼくも授業でネタに使うとしたら『宇治拾遺物語』にある「夢買入れの事」ぐらいである。

 そんな吉備真備を題材にした出題が、東京大学1997年度の第1問である。
 

<東京大学1997年度第1問>

 次の文章を読み、下記の設問に答えよ。

775年に81(または83)歳で没した吉備真備は、吉備地方の豪族の出身である。717年に遣唐使に従い留学、よく経史を学び、「日本の留学生で唐で名をなした者は真備と阿倍仲麻呂の二人のみである」とまで称された。735年に、多くの書物などを携えて同期の留学僧玄ムらとともに帰朝、その最新の知識は朝廷で重んじられた。のちの孝謙天皇の皇太子時代の教師となったのもこの頃である。740年には、重用される玄ムや真備の排除をめざして藤原広嗣が大宰府で反乱を起こしたが、鎮定された。やがて藤原仲麻呂が権力を持つと左遷され、さらに751年には入唐副使となって再び唐に渡った。帰国後は大宰府の次官となり国際的緊張下に筑前国の怡土(いと)城を造った。のちに京にもどった真備は、764年の藤原仲麻呂の乱では、兵法の知識をいかして孝謙上皇側の参謀として乱の鎮圧に活躍した。その後、称徳天皇のもとで真備は昇進を重ね、766年にはついに右大臣にまで上った。

設問

A 吉備真備は二度にわたり唐にわたった経験をもつ。古代の遣唐使が日本にもたらした制度や文物について、具体例をあげながら4行以内で述べよ。

B 多くの政治的争乱がくりかえされた中で、地方豪族出身の吉備真備は、なぜ長期にわたって政界で活躍し、右大臣にまで上ることができたのだろうか。その理由について、考えられることを3行以内で述べよ。


 一見して設問Bがニクイ! 奈良時代といえば「
血塗られた奈良時代」と言った人がいたぐらい政争が続き、受験生の多くが「10年ごとに皇族と藤原氏が政権を取り合い、その間に反乱があった時代」と認識しているような時代である。エピソード 『その時歴史は動いた ー藤原房前、参議となるー』参照

 そんな中で地方豪族出身という低い出自であった吉備真備は、771年に右大臣を辞すまでの実に30年以上、政治生命を維持し続けた。その理由は何だろう。何か、民放の歴史バラエティーに出てきそうなテーマである。
 しかも当に吉備真備については、ほとんど歴史的史料が残されていないので、これは問題で与えられた文章から読み解くしかない。

 <考え方>
 設問Aについて。実はこれも相当ニクイ問題である。

 これは真備に限らず
遣唐使の話である。問われているのは、
ア 遣唐使が日本にもたらした「制度や文物」を論じること。
イ 具体例をあげて論じること。
ウ 4行(120字)で論じること。
 
 与えられた資料には、「多くの書物などを携えて同期の留学僧玄ムらとともに帰朝、その最新の知識は朝廷で重んじられた。」とあるのみであり、これは知識で120字書かなくてはならない。
 それでは遣唐使がもたらしたものについて、教科書にはどのように書かれているか。

「遣唐使たちは、唐から
先進的な政治制度や国際的な文化をもたらし、日本に大きな影響を与えた。」(山川『詳説 日本史』P.38)
「奈良時代に遣唐使は6度派遣され、外交や文化の移入に大きな役割を果たした。(略)遣唐使によって、唐から
政治制度や国際的な文化、先進技術などがもたらされた。」(実教『日本史B』)
「702年に遣唐使を復活させ、
唐の文物や制度の摂取につとめた。」(三省堂『日本史B』)

と、
先進的な政治制度や文化と記されているだけであり、具体的に○○というものはあげられていない。若干異なっているのは、
「先進的な制度・文化を学び、律令国家の発展に寄与した。例えば、ともに717年に出発し、約20年後に帰国した吉備真備と玄ムは、儒教と仏教の面で、当時最新の成果を唐からもたらした。」(東京書籍『日本史B』)
「留学生の中でも
吉備真備は中国で多方面にわたる学術を学びとって、わが国の学問に貢献し、僧玄ムは、大量の経典をもち帰って、仏教学に貢献した。」(桐原『日本史B』)

であるが、吉備真備が学術で玄ムが仏教の経典などというのは当たり前と言えば当たり前で、これもほとんど参考にならない。
 
 つまり、
我々(指導する教員も含む)はよく「遣唐使は先進文化の導入に大いに貢献したのだ。」と言っているが、それは具体的にどういうことなのかは教科書にも出ていないし、おそらく学校でも教えていないのである。

 設問Aはまさに教科書の丸暗記ではできない、いわば教科書の盲点である!

 そこで、学習する内容で「唐にならって・・・」という文字が出てくる、
仏教・儒教以外のものを考えてみよう。以下は山川の『詳説日本史』からの抜粋である。

a 中国の都城にならった藤原京の造営をはじめたが・・・。(P.34)平城京は長安にならい・・・(P.38)→
都城制
b 藤原京は(略)、有力な王族や中央豪族がそこに集住させられた。そして国家の重要な政務・儀式の場として中国にならった瓦葺で礎石建ちの大極殿・朝集院がつくられるなど、新しい中央集権国家を象徴する宮都となった。(P.34)→
都城制中央集権制
c 日本の律令は、唐の律令にならいながら、独自の実情にあわせて改めたところもある。(P.35)→
律令制度
d 唐にならい和同開珎を鋳造した。(P.39)→
貨幣鋳造
e 豪族たちは中国的教養を受容して漢詩文をつくるようになり・・・(P.35) 文芸を中心として国家の隆盛をめざす文章経国思想が広まり・・・→
貴族の教養、文章経国としての漢詩文の発展
f 天平文化は、唐の文化の影響を強く受けた国際色豊かな文化となった。(P.46) 鳥毛立女屏風の樹下美人図や・・・、唐の影響を受けた豊満で華麗な表現である。螺鈿紫檀五弦琵琶など・・・唐ばかりでばく西アジアや南アジアとの交流を示すものがみられ・・・(P.50)→
国際色豊かな美術品・工芸品

 また、『詳説 日本史』にはそのものずばりの記述はないが、実教の『日本史B』(P.58)に「中国の例にならって大化という年号をはじめて定め」とあるように、乙巳の変のあと、中国にならって元号を初めて定めたとされていることは聞いたことがあると思う。→
元号

 以上をまとめるだけでも4行は埋まると思う。しかし、ここでもう一歩考えたい。
なぜ年号を定めたのか?

 受験勉強をしていると「養老七年の格(三世一身法)の養老七年は西暦何年?」などの問いはよく目にする。しかし、なぜ元号は変わるのか? 
 勉強不足か、ぼくは、解説を書くのに利用している5社(山川、実教、三省堂、東京書籍、桐原)の日本史の教科書の中で、元号(年号)の持つ意味を説明している箇所を見つけることができなかった。
 しかし授業中のエピソードか何かで、こんな話を聞いたことはないだろうか。
「天皇は疫病がはやると元号を改めることでそれを鎮めようとしたり、尾が二股の亀が発見されたというと、福にあやかろうとして神亀というように元号をかえる。これは天皇(天子)の徳と結びついているのだ。」

 元号(年号)を用いているのは、中国の影響を受けた国家であり、この件に関しては
世界史ではよく取り上げられる。そして次のように説明される。

「元号は、政治的支配の正統性を象徴している。天子は空間と共に時(世)も支配するとされ、天子の定めた元号と暦法を用いる(正朔を奉ずる)ことがその王権への服従の要件となっていた。そのため冊封を受けた国に対し、中国は元号と暦を与えたのだ。


 
元号は政治的支配の正統性を表す。だから日本においても南北朝時代、南朝も北朝も独自の元号を立てたのである。

 そしてこの支配の正統性を表すために、もう一つ中国が行ったことが歴史書の編纂である。中国では孟子の易姓革命の思想が生きている。
仁政による政治は王道とよばれ、武力による覇道と対立するものであった。孟子は覇道にたよって、民衆の苦しみをかえりみない暴君は追放されて当然だと述べた。」(第一学習者『高校学校 倫理』P.62)

 皇帝(天子)は、天帝の信任を受けてこの世を任された。しかし天子が民衆を苦しめる悪政を行うと天帝の信任を失い、天帝は新しい天子を立てる。それが易姓革命である。
 王朝が交代するとき、前の王朝を倒した側は、自らの正統性を主張しなければならない。そのため前の王朝がいかにして天帝の信任を得て成立し、いかなる歴史を刻んで、そして悪政に至り滅亡したか→天帝が新しい天子として自分を地上に送ったか、を証明しなければならない。そのため、前の王朝の歴史を残すことは次の王朝の義務のようにすらなった。

 同じ理由が日本の歴史書の編纂にも当てはまる。律令国家形成の過程で史書の編纂が行われるが、これも元号と同様、支配の正統性を示すためであった。

 以上、「唐(中国)にならって・・・」の中には、
元号と史書の編纂→支配の正統性を示すがある。世界史では、ごく一般的な知識であろう。しかし日本史の学習だけでは結びつかなかったのではないか。やはり日本史は世界史の中の日本の歴史である。

 なお、
三省堂の『日本史B』にはP.36に、「朝廷は、新都の造営や貨幣の鋳造、国史の編纂などつぎつぎと実行して、中央集権体制にふさわしい国家づくりにはげんだ。」という記述があり、中央集権体制のシステムを中国から学んだ日本が、あわせてこれら(都城制、貨幣鋳造、国史編纂)も学んだことがわかる。

 以上を120字でまとめればよい。


<設問A 野澤の解答例>

A律令とそれに基づく中央集権体制、重要政務の場としての都城建設や貨幣鋳造、さらに支配の正統性を示すために元号を定め、史書を編纂することを学んだ。また仏教・儒教が発展し、貴族の教養としての漢詩文、国際色豊かな美術品・工芸品などがもたらされた。(120字)

 設問Bについて。
 Aとは逆にこれは、与えられている資料を読み取ることで、答案を作成しなければならない。
 資料を読み解くことで答案を作成する試みとして今、「東大チャート」のコーナーを設けており、設問Bはチャートを作成した。

2011.5.29

東大チャート「1997年第1問の設問B 吉備真備が長期にわたって政治生命を維持できた理由」

窓・発展目次へ戻る
東京大学入試問題解説TOP
トップページへ戻る