発展 『教科書の盲点ーNHKドラマの主人公 吉備真備と遣唐使ー』ー東大入試問題に学ぶ6(1997年度第1問の設問A)ーの続きである。
こちらから先に入った方は、一度、設問Aのほうも確認してほしい。
次の文章を読み、下記の設問に答えよ。
775年に81(または83)歳で没した吉備真備は、吉備地方の豪族の出身である。717年に遣唐使に従い留学、よく経史を学び、「日本の留学生で唐で名をなした者は真備と阿倍仲麻呂の二人のみである」とまで称された。735年に、多くの書物などを携えて同期の留学僧玄ムらとともに帰朝、その最新の知識は朝廷で重んじられた。のちの孝謙天皇の皇太子時代の教師となったのもこの頃である。740年には、重用される玄ムや真備の排除をめざして藤原広嗣が大宰府で反乱を起こしたが、鎮定された。やがて藤原仲麻呂が権力を持つと左遷され、さらに751年には入唐副使となって再び唐に渡った。帰国後は大宰府の次官となり国際的緊張下に筑前国の怡土(いと)城を造った。のちに京にもどった真備は、764年の藤原仲麻呂の乱では、兵法の知識をいかして孝謙上皇側の参謀として乱の鎮圧に活躍した。その後、称徳天皇のもとで真備は昇進を重ね、766年にはついに右大臣にまで上った。
設問
B 多くの政治的争乱がくりかえされた中で、地方豪族出身の吉備真備は、なぜ長期にわたって政界で活躍し、右大臣にまで上ることができたのだろうか。その理由について、考えられることを3行以内で述べよ。
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2011.5.29