エピソード 「暗君の哀しみー北条高時ー」


 日本史上の敵役の話は、
エピソード「悲劇の天才−蘇我入鹿の再評価−」で少し取り上げた。しかし、敵役以上に歴史上で不遇を託っているのは、「暗愚、愚か者」として定着している人たちであろう。

 例えば、北条高時について山川の『日本史用語集』では「遊楽に耽って幕政を乱し、元弘の変に際して後醍醐天皇を隠岐に流したが、御家人が離反し、新田義貞の鎌倉攻撃を防ぎ得ず自殺した」と述べている。これなどは客観的なほうで、中には「田楽や闘犬に明け暮れる、凡庸というよりは暗愚な執権であり、鎌倉幕府滅亡の一因となった」と書かれているものもある。

 実はぼく自身も、学生時代はそういうイメージを持っていたし、新規採用の教員になって3年目まではそう教えてもいた。

 その見方に一石を投じたのが、NHKの大河ドラマ「太平記」(1991)であった。

 母親から「しっかりせよ」と厳しく言われた高時が、鼓を打ちながら「わしは名執権と言われた父上(貞時)に頭が上がらず、母上に頭が上がらず、わしが死んでも泣いてくれるのは、田楽一座と百匹」と泣くシーンがあったことは、本編で述べたとおりである。
 そしてぼくにはもう一つ、忘れられないシーンがある。それは、鎌倉幕府滅亡の場面である。

 新田義貞の攻撃の前に、「鎌倉以外に行く所などない。潔く自害しよう。」という意見と、「生きていてこそ次がある。海へ逃れるべきだ。」という意見がぶつかる中、覚悟を決めた高時が腹を切る。そして、最期の息で彼はこうつぶやく。

これで父上は褒めてくれるかのう

 幼いときから、ことあるごとに偉大な祖父(北条時宗)や父(北条貞時)と比べられ、「馬鹿だ、愚かだ」と言われ続け、母親からも父親からも一度もほめられたことのなかった彼が、人生の最期に、「これで、武士らしい見事な最期であったと、父上は初めて自分を褒めてくれるだろうか」という、何という哀しく切ない言葉。涙が出た。あぁ、北条高時は、本当は苦悩に満ちた人物だったのかも知れないと思った。

 高時が家督を継いだのは9歳の時、執権となったのは14歳である。数え年だから今でいう中学校1年生である。北条時宗よりも若い。これでしっかりせよ、ちゃんとやれというのは、そっちのほうが酷だろう。
 しかも内管領はそれを利用して専横をふるう。成長するにつれて実情の分かってきた彼は、現実逃避をして「亡気」と評されるようになる。それをどうすることもできない自分。「みんな仲良うの」とへらへら笑ってはいても、内心は憎らしく思っていたのではないか。
 そこへ転機が訪れる。1331年、元弘の変。これを治め、後醍醐天皇隠岐へ退け、幕府を守る。生まれて初めて得た「やれる」という自信。この勢いで長崎高資を討とうとするが、これには失敗。責任を家臣に押しつけ、関与を否定する。あぁ、やっぱり自分はだめだという挫折感・・・。周囲はさぞ呆れ、「やはり高時は暗愚だ」と笑っていることであろう・・・。

 24歳の時、在位10年にして執権職を譲った後も、北条氏の当主の地位に縛られていた彼は、幕府を滅ぼすという最大の屈辱の中で、最期に自らが誇れる死に様をもって、31年の生涯を閉じた。

2004.10.9

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