エピソード 『勝って驕らずー西郷隆盛ー』

 西郷隆盛のことを良く言う人は、凄く多いので、(コラム「受験直前のクリスマスに」参照)大久保利通ファンのぼく(エピソード「渾身これ政治家−大久保利通−」参照)としては、あまり『西郷さん』については触れたくないのだけど、一つだけ。

 西郷さんの大人物ぶりを象徴するエピソードは、江戸無血開城に導いた薩摩屋敷における勝義邦(海舟)との会見であろう。

いよいよ談判になると、西郷は、おれのいうことを一々信用してくれ、その間一点の疑念もはさまなかった。「いろいろむつかしい議論もありましょうが、私一身にかけてお引き受けします。」西郷のこの一言で江戸百万の生霊(人間)も、その生命と財産を保つことができ、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。(勝義邦氷川清話』より)

 この部分だけでも、西郷の人となりが分かるが、圧巻なのはこの続きである。

このとき、おれがことに感心したのは、西郷がおれに対して、幕府の重臣たるだけの敬礼を失わず、談判のときにも、終始坐を正して手を膝の上にのせ、少しも戦勝者の威光でもって敗軍の将を軽蔑するというような風が見えなかったことだ。

 新政府軍の指導的立場にある者の中には、正反対の態度をとる者もいた。その代表例とされているのが奥羽鎮撫隊下参謀世良修蔵である。世羅は、会津藩に対する寛大な処置を望んでいた仙台藩主や家老を面と向かって罵倒するなど、高圧的で傲慢な態度であったと言われる。これが仙台藩士らを激怒させ、彼の暗殺へと向かわせる。この事件をきっかけに、仙台藩は反薩摩の姿勢を取らざるを得なくなった。東北に進軍した後、世羅は酒と女におぼれる日々を送っており、襲われた時も、なじみの妓を抱いた後、全裸で寝ているところであったという。

 もっとも、大仏次郎、司馬遼太郎、早乙女貢らの作品の中で、悪人扱いされてきた世良の生涯を再評価する意見もある。会津若松地方で彼が「大悪人」呼ばわりされているのは、白虎隊が神話化されている反動であり、本当は学者タイプであった世羅は、新政府誕生のための捨石にされたのだというものである。(谷林博『世良修蔵』)

 しかし、一般に伝えられている世羅修蔵のような態度で、旧幕臣や他の藩の者に接する新政府の人間がいたことは確かであろう。それだけにこの西郷の姿勢が光って見える。

 西郷ファンの人には申し訳ないが、西郷には倒幕後の日本の方向について、明確なビジョンはなかったという説もある。ぼくも同様の意見を持っている。
 また、島津久光が「西郷と大久保にだまされた」と言っていることに対して、西郷には「久光に申し訳ない」という思いが、常にあったように感じる。このあたりは「」の人、西郷である。
 それに対して、大久保は仮にそう思っていても、表には決して出さない。出せば周囲が動揺する。この「強さ」が、ぼくが彼を『真のリーダー』と、高く評価する所以でもある。

 しかし、それでもこの勝と会見したときに見せた西郷隆盛の姿勢は、見習いたいものだと思う。

 (2003.3.24)

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