エピソード 「渾身これ政治家−大久保利通−」

 NHKの大河ドラマで、西郷隆盛と並んで主人公とされるまで、「西郷さんを殺したやっちゃ。」と言われ、敵役だった。(今でもそういう見方をする人も多いのではないか。エピソード「勝って驕らず−西郷隆盛−」参照)
 生誕地に銅像が建ったのは、死後100年以上たった1979年。対する西郷隆盛は1937年である。
 正義感が強く情にもろい西郷に対して、大久保は「権謀術数・冷徹」であり、権力志向が強いというイメージで語られることもある。しかし、情に流されていては、国家的危機の状況下で、断固たる改革はできない。そして、改革を断行するためには「力」が必要なことも事実である。
 明治初期のジャーナリストの一人福地源一郎も、大久保のことを「渾身これ政治家」と言い、日本の近代国家の基礎を作ったと認めている。

 紀尾井坂の変で、大久保を暗殺した連中は「国家の財産を私物化した奸賊を成敗した」と胸を張って出頭したが、当時、大久保の全財産はほとんどなく、屋敷も抵当に入っていた。それどころか、必要な公共事業を私財で行ったり、郷里の鹿児島に学校費として多額の寄付をしていたことから、莫大な借金があった。もし、債権者が全員債権を放棄していなかったら、遺族は路頭に迷ったかもしれない。
 私を省みず、全身全霊をかけて国家のために邁進していたことがわかる。

 彼は死の二カ月前、地方制度改革の意見書を提出した。その要点は、地方政治に制限付きながら、住民参加を認める府県会を設けることであった。

 大久保には、「明治日本が進むべき道に対する明確なビジョン」があった。そのビジョン自体に対する賛否もあろう。

 だが、「我々が目指すべき方向はこっちだ!」とはっきりと指し示し、且つ、その達成のために具体的な手段を講じることができる人物が、一体どれほどいるであろうか。事実、大久保を失った明治政府は、自由民権運動の高まりの前に内紛を生じることになる。

 作家の塩野七生さんが著書の中で、「真のリーダーとは、最悪の事態を避けるためならば、それが次悪の手だと分かっていても、眉一つ動かさずにやってのけることができる人間のことだ。」という意味のことを書いていた。

 大久保利通は、まさしくそういった『真のリーダー』だったと、僕は思う。

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