エピソード 『恐るべし!  大運河』

 学生時代の最後に行った中国旅行の最後(旅行の経緯は、エピソード「成都旅情」参照)は、杭州から蘇州、そして上海に帰るルートであった。上海から日本へ帰る船の便は決まっていたので、蘇州で2泊して、上海1泊、そして「鑑真号」で日本へ、と考えた。
 ではどうやって杭州から蘇州へ行くか。友人が提案した。

煬帝がつくった大運河で行こう!」

 大運河とは、煬帝が開削した黄河揚子江とをつなぐ文字通り大運河である。このような大事業の負担と高句麗遠征の失敗が、隋王朝を滅亡に導くのではあったが。
 時刻表では、夕方の6時半に杭州を出て、運河を北上して、翌朝の7時半に蘇州に着く予定であった。
 船は定刻に杭州を出発した。中国の甘ったるいワインとつまみに小さな饅頭を買って、僕たちは船に乗り込んだ。1月だったが暖かく、小さな船の甲板は快適で、二人でワインを飲みながら運河を眺めて

1400年前に煬帝がつくった運河に、僕らは今いるんだ・・・

と感慨に耽っていた。船は快調に走る。翌朝目が覚めるころには、水の都蘇州のはずであった。

 翌朝、目が覚めると船は止まっていた。もう蘇州か、と飛び起きたが、様子が変だ。街らしきものが見えない。見渡す限り大平原であった。そして・・・

狭い運河を埋めつくす船・船・船・船・船・船・船・船・船・船・船・船・船・船・船・船・船・船・船・船・船・船・船・船・・・・・・・・・・・

 前も後ろも右も左も、身動きがとれないで埋まっていた。渇水期の運河に多くの船が突っ込んだので、大渋滞となって動けなくなっていたのだった。乗組員のおじさんに現在地を聞くと、「杭州よりは蘇州に近い」とのことであった。

 船は全く動かないまま、太陽だけは東の空から真上に移動した。

 途中、思い出したかのように船のエンジンが ドッドッドッドッドッドッドッ・・・・

 日本人も中国人も「おおおおおおおおおお・・・・

 船がドッ・ドッドッドッ・ドッ・ドッドッ・ドッ・・・・」

 日本人も中国人もああああああ・・・・・

ということが何度かあった。   

 昼ごろ、新婚旅行の夫婦と数人の男の人が、船を降りてバスに乗ると言い出した。「バス停があるのですか?」と聞くと、「あの平原の向こうに国道が走っている(ハズだ。見えないけど)。そこまで行けばバスに乗れる。これではいつ蘇州に着けるか分からない。」と言う。
 どうしようか。僕たちも一緒に行こうか。そして、僕たちも船を降りようと思ったその時、ベッドで横になっていたおばあさんが、僕たちに向かって早口で何か言った。友人が
「あのおばあさんが、行くべきじゃない。絶対船のほうが早い、って。どうする?」
 どうしよう。優柔不断な僕たちがまたまた迷っている間に、新婚さんたちは、横で同じように動けなくなっている船をつたって陸に上がり、僕たちは置いていかれてしまった。

 太陽は西の空へと移動した。結局船は、1日かけて50mほど動いただけだった。太陽が地平線の向こうに沈むのを初めて見た。

 不思議だったのは、次の日の朝に着くはずだった船なのに、三度の食事の注文を取りに来て、ちゃんと料理が出たことである。見たら、横に食材を満載した船が、やはり動けなくなっていたから、その船から買っていたのかもしれない。

 大平原の夜は、満天の星空だった。星が降るようだった。360度見渡したいと思って、船の屋根に上って怒られた。覚悟を決めて、ベッドに入った。

 深夜、目が覚めると、船は快調に走っていた。周りにあれほどいた船は、全く姿が見えなくなっていた。これまた凄く不思議だった。朝日は、まばらに建っている家々の間から昇った。

 船は27時間遅れで、蘇州に着いた。一言の謝罪もなかったばかりか、この後検査だからと港ではなくドッグに入った。中国人は誰も怒らず、船を下りた。

 蘇州では街まで、輪タク(自転車タクシー)に乗った。留めてから気付いたのだが、運転手は60歳を過ぎたであろう人だった。
 20歳代前半の若者が座席に座って、初老の人がその自転車を漕いでいる。凄く居心地が悪かった。友人が 

 「代わりましょうか」

と莫迦なことを言って、当然、即座に断られた。水の都蘇州はだった。 

  中国4000年の歴史というが、中国の時の流れの悠久さを痛感した40時間の船旅だった。恐るべし 大運河! 恐るべし 大中国!

(2002.11)

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