エピソード 『上海の夜』

  
 学生時代の中国旅行(エピソード「成都旅情」参照)最後の夜は、上海であった。蘇州からはバスで2時間半で着いた。ここから、鑑真号で東シナ海を2泊3日で渡り、大阪へ帰る。ちょうど遣唐使の南路と同じようなコースである。(冬の外洋は大いに揺れた。大きなフェリーでさえ揺れるのだから、遣唐使の困難はいかばかりであったろう。)

 最後の夜は少し贅沢をしよう。ぼくたちは、泊まることはできなかった最高級ホテルのレストランで食事をし、世界最高峰の「上海雑技団」(サーカス)を見に行った。かなり早い時間にチケット売り場に行ったにもかかわらず、チケットはsold outであった。
 ぼくたちの姿を見て、何人もの中国人が近づいてきた。ダフ屋である。外国人観光客目当てに、チケットは販売と同時にダフ屋に買い占められてしまうのだ。結局、ぼくたちは額面の10倍以上の値でチケットを購入した。サーカスには空席がいくつもあった。
 聞くと一軍はヨーロッパ公演に出ているということだったが、そうは見えない凄さだった。さすが世界一、層の厚さも世界一だと思った。その中で一番印象に残っているのは、パンダの芸である。なぜかというと・・・
 とにかくこのパンダ、まったくやる気がない。嫌々やらされているというのが見え見えで、隙あらば楽屋へ帰ろうとして、なんか哀れだったからである。
 ホテルへの帰り道、まだ開いていた外国人専用デパートに立ち寄った。何気なくショーケースを見ていたぼくの目は、一つのものに釘付けになった。

 「 夜光杯 

 杯   イ   ・・・・

何という美しい響きだろう。ライトを受けて緑色に光っていた。そして、夜光杯といえば言うまでもない!

  涼州詞    王翰

葡萄美酒夜光杯   葡萄の美酒を夜光の杯にうける
欲飮琵琶馬上催   飲もうとすると、馬の上で琵琶がかきならされ、もっと飲めと勧める
醉臥沙場君莫笑  酔って戦場で寝てしまっても、笑わないでくれ
古來征戰幾人回  昔から、戦争でいったい何人生きて帰ってきたというのか

注:沙場は砂場の意味ではない。戦場では砂ぼこりがあがることから、戦場のたとえとして使われている。

 欲しい。しかし、それは中国で泊まったどのホテル代よりも高かった。だが、ぼくの財布の中には、かろうじてそれを買える額の中国札があった。悪魔が囁いた。
明日には日本に帰るんだぞ。金を残しておいてどうするんだ。
そうだ、その通りだ・・・。さらに悪魔は言った。
おまえが夜光杯を買えば、俺がぶどう酒を買おう。
悪魔には「島根なまり」があった。ぼくたちは、涼州詞を吟じながらホテルへ帰った。
かんぱーい
 箱の中には、説明書が入っていた。
「俺にも読ませてくれ。」
 幸い説明書は両面印刷で、英語と中国語が裏表に書かれていた。ぼくたちは向かい合わせに立って、読み始めた。そして・・・、

あっ!

  ほとんど同時に声をあげた。そこには

「これは、あの有名な詩に出てくる夜光杯ではありません。」

今、ニセモノの夜光杯(ヒスイ)は、食器棚の中で、ホンモノの夜光杯(ガラス)に囲まれている。

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