エピソード 『成都旅情』

 卑弥呼について。彼女はよく若くてきれいなお姉さんが、男たちを従えているイメージで描かれる。しかし実際は「年已に長大なるも、夫壻無し」とあるように「よぼよぼのオールドミス」であった(失礼)。これは後継者となった壱与(台与)が13歳の少女だったこととイメージが混同されているように思う。
 もちろん、彼女(卑弥呼)にも若い時代があったことは間違いなく、横光利一の『日輪』という傑作のモデルともなっている。(『日輪』はいい! 高校時代に読んだが、本当に行間に古代の風が吹く!

 その卑弥呼が登場する『魏志倭人伝』とは『三国志』の『魏書』の東夷伝中の倭人に関する記述の俗称であり、いわゆるの『三国志』の中の一節である。(こうしてみると試験で「出典を記せ」と聞いて、『魏志倭人伝』と答えさせるのも、本当はおかしいよね。)かつて3世紀の東アジア情勢として、中国のの3国と朝鮮半島の辰韓弁韓馬韓の名と場所を答えさせる問題もあった。

 『三国志』では曹操は、たいてい敵役である。(僕は個人的には好きなのだが。特に若い時の曹操が。中でも、自らの慢心と油断のせいで窮地(張繍の夜襲)に追い込まれた自分を逃がすために、家臣の典韋が戦死したのを知った時、我が子が死んだ時以上に嘆き悲しみ、「俺はお前が命に代えて守った価値のある男になってみせる」と誓う姿は感動的である。)
 それに対して主人公はやはり劉備玄徳関羽張飛趙雲そして諸葛孔明らがいるであろう。

 学生時代最後の冬、正月をはさんで1ヶ月余り中国をフラフラしていた。行きと帰りの船の便(船の名は「鑑真号」という。神戸・大阪から2泊3日で上海へ着く)だけ予約して、後は中国へ着いてから考えるという旅である。こう書くと何だか凄いことのように見えるが何のことはない。今はどうか知らないが、当時の中国は予約なんかあってないような国だったのだ。(実際、午後3時ごろ、ホテルで「う〜ん、満室だけど予約の人がまだ来てないから使っていい」と言われたこともある。)その旅の中で一番思い出に残っているのが、『三国志』のの都があった成都である。

 成都は本当に奥地にある。当時、観光地として発展したいと考えていたらしく、訪れたどの街よりもきれいだった。僕と友人(彼の誘いで中国へ行った。彼は東洋史専攻で、中国語会話に不自由しなかった。僕は中国へ行こうと決めてから、1ヶ月間、慌てて勉強したのみだった。)は、旅行中、値段の割りに最もリッチなホテルに泊まった。

 そして、バスに乗って郊外へ出ようとしていた時である。後ろで日本語の会話が聞こえたのだ。僕たち二人は振り返った。後ろの座席には、おばあさんと青年が座っていた。おばあさんはにっこり笑うとこう言った。

「やっぱり、日本のかたですよね。」
「はい、そうです。」
「今、孫とね。きっと前の二人日本人だよ。でもどう言おうか。いきなり『日本人ですか?』って聞くのも失礼だし。そうだ、私たちが日本語で話していたら、きっと振り返るよって、話してたんですよ。」

その通り、僕たちは振り返ったわけである。

「日本語、お上手ですね。」
「孫は台湾に住んでいて、今、名古屋の大学に留学してるんです。私も戦前まで、台湾に住んでいたのですよ。」

 これが何を意味しているのか。少なくとも、ともに歴史学専攻であった僕と友人には、はっきりと分かった。

植民地支配。日本が言葉を奪った結果、彼女は日本語がペラペラなのである。彼女は「私の日本語、今でも通じますか? あ〜、うれしい」、「当時、こんな歌がはやってたんですよ。今の若い人も聞いたことがあるのかしら」と、明るかった。偶然、僕たちの目的地に家があり、案内もしてくれた。とても親切にしてもらった。
 しかし僕たちは、ありがたさよりも申し訳なさで、本当に辛かった。具体的にどこを観光したのかはよく覚えていない。けれども成都は忘れられない場所となった。

 当時、中国は二重貨幣制度(政府の外貨獲得のため、外国人が使用する貨幣と、中国人が使用する貨幣とを別にしていた。そして中国人にとっても良い物、欲しい物は外国人用の貨幣でしか買えなかった。)をとっていたため、外国人を見ると、お金目当てで接近してきて親切にする中国人が多く、人が信じられなくなるという、随分と悲しい思いを何度もした。

 しかし、汽車やバスなどの中で偶然出会った人たちは、損得勘定なしでよくしてくれた。特に汽車では一等寝台で旅をする外国人が多い中で、二等寝台で中国人と一緒にゴロゴロしていた僕たちは、話の輪の中心となった。(次の目的地まで、汽車で2泊3日などは当たり前だった。)僕は中国語はほとんど出来なかったが、強〜い味方があった。漢文である。(レストランでも「豚肉炒」と書いてあれば、間違いなく豚肉の炒めものが出た!)

 汽車の中で、同世代の青年に日本の戦争責任について問い詰められたことがあった。僕たちには返答の仕様がなかった。日本が悪かったことは百も承知だからである。
 その時、昔のジャッキー・チェンの映画に出てくるようなおじいさん(本当にそうなんだ)が、「まあまあ」と言って割って入ってくれた。そして、にこにこ笑いながら、

「いいか。わしらの時代には確かに不幸なことがあった。しかし、お隣同志の国なんじゃから、おまえたち若い者は仲良くせんといかんぞ。」

 泣けた。おじいさんも、日本のためにどんなにかひどい目にあったであろう。しかし、「若い者に罪はない」と言って穏やかに笑える老人のいる中国は、確かに『大人』(ターレン)の国だと思った。

(2002.10)

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