東大チャート 2005年度 『東京大学 第1問』 の解答例と解説

ー 嵯峨朝の歴史的意義ー

<野澤の解答例>

嵯峨朝では、天皇直属の令外官の設置や、法制の整備によって政治実務の便が図られて官僚制が充実し、天皇権力が強化された。また儀礼の唐風化により天皇権威が高まった。政治に携わる貴族・官人には漢文学や儒教など唐風の教養が求められたため、唐風文化が隆盛した。このような唐風の政治制度や文化の積極的導入は、伝統的な貴族社会を変容させるとともに、後の国風文化の前提となった。 (180字)


<解説>
 嵯峨朝に関する出題は、大阪大学の2010年度の第1問などにも見られる。令外官蔵人頭検非違使弘仁格式令義解などはどの教科書にも記されている。また、嵯峨朝から清和朝までの弘仁・貞観文化の時期は、文芸を中心として国家の隆盛を目指す「文章経国」思想が広まり、宮廷で漢詩文が発達し、勅撰漢詩集が編まれたことも必修である。(文章経国思想は、奈良時代の「鎮護国家」思想との対峙でもおさえておきたい。)

 実際、今回年表中にあげられているもののなかで、受験生にとって初見となるものは一つもない。
 「818年 平安宮の諸門・建物の名称を唐風にあらためる。」も「821年 唐風をとり入れた儀式次第を記す勅撰儀式書『内裏式』が成立する」も教科書に「嵯峨天皇は、中国風を重んじ、平安京の殿舎に唐風の名称をつけたほか、唐風の儀礼を受け入れて宮廷の儀式を整えた。」(山川『詳説 日本史』P54〜55)と記されている。仮に知らなかったとしても、資料として与えられており、解答を作成する上でまったく問題ない。

 おそらくこのページを見てくれている人も、内容の軽重はあるにしても、

→「令外官の設置を中心とした官制の再編」
→「法制を整備し、実態に応じて政治の実務をあげた」
→「貴族・官人は漢詩文や儒教など唐風の教養や学識が求められ、儀式も唐風に改められるなど、唐風文化が隆盛した。」

は、書けたのではないか(これを「知識・読み取りパート」とする)。しかし、本当に問われているのは、

では、それらは古代史の中で、どのような歴史的な意味があったのですか?

である。


 歴史的な意味(歴史的意義)
とは、「Aであったものが、Bによって、Cに変化した」をいう。そしてこれを見抜く力が、近年、学習指導要領で盛んに強調されている「歴史的思考力」である。
 今回の東大の問題は、まさにそれを問うている。
 
 では、ぼくの解答例の中で、「知識・読み取りパート」にないのは、Aグループで記した@「天皇権力を強化することが図られた」と最後の決めぜりふとも言うべきA「唐風の政治制度や文化の積極的な導入は、伝統的な氏族的政治を変容させるとともに、後の国風文化の前提となった。」である。

 まずは@から説明したい。どの教科書を見ても、蔵人頭と検非違使が強い力を持つ重要な職となったことは記されているが、それが天皇権力の強化のためとは書かれていない。しかし、蔵人頭の職務は何か。「天皇の命令をすみやかに太政官組織に伝えるための秘書官長」である。これだけを見ても、天皇の力を強化するためであることはうかがえる。
 しかしぼくが「律令官制を超えた天皇権力の強化」と位置付けた理由は、あの大宝律令の「二官八省一台五衛府」という仕組みと唐の官制との違いである。
 これを読んでくれている人が受験生である場合、世界史で唐の律令は習った(もしくは習う)と思う。よく日本の弾正台は唐の御史台と比されるが、実際にはまったく違う。世界史で習った唐の御史台について思い出して欲しい。

 御史台は役人の不正を監視する組織であり、皇帝直属であった。律令に基づく中央集権政治を行う上で、皇帝にとって最も危険なことは何か。それは皇帝の手足であるはずの官吏が不正を働くことである。皇帝が絶対的権力を持つ上で、官吏の不正は絶対に許してはならない。そのための組織が御史台であった。
 科挙を優秀な成績で合格し認められた官吏は、御史台の役人となった。御史台の役人は皇帝直属だから、身分の上下に関係なく皇帝に直接話をすることができ、下の者が宰相・大臣クラスを訴えることも可能であった。そのため御史台の長官である御史大夫は絶大な権力を握ったが、その御史大夫も不正を働いて、部下の役人に訴えられたこともあった。そして御史大夫を勤め上げた者は、その後、ほとんどが宰相になった。

 弾正台は表向きこの制度を取り入れ、官吏の監察組織と位置付けられはしたが、身分が下の者が上の者を訴えることはできず、実質的には機能しなかったといっても過言ではないと思う。そのため結果として、分不相応な格好や振る舞いをしている者をチェックするのが職務(風紀委員みたいなもの)のようになり、教科書でも弾正台は「風俗取り締まり、官吏の監察」となっている。

 その背景には、皇帝に絶対的権力を持たせることが大前提であった唐と違って、日本はあくまで「和」の世界であったからだという説もある。

 しかし蔵人頭は間違いなく天皇直属であり、貴族ですらない六位でも蔵人は公卿と同様に殿上に上がることが許された。実は検非違使も直属である。三省堂の教科書には検非違使について「政情不安な京の治安維持」と書かれているが、ここからも蔵人頭と検非違使という天皇直属の令外官の設置が、大宝律令(養老律令)の規定を超えて、天皇の力を強化するためのものであったことが分かる。

 次にAについて。「伝統的な氏族的政治」については、エピソード 『その時歴史は動いた ー藤原房前、参議となるー』 や 入試問題解説 2006年度 『東京大学 その1』 を参照してほしい。奈良時代、律令が制定されたとはいえ、多くの貴族は伝統的な氏族政治の意識から抜け出せていなかったことがわかる。

 また阪大の入試問題解説を書くのに利用している実教の教科書には次のようにある。

 冬嗣らは、血筋や家柄にこだわらず、儒教的学識とすぐれた行政能力をもつ新しい型の官人を起用し、律令政治を修正しつつ、再編する努力をおこなった。 実教『日本史B』P.78

 まさに伝統的な氏族的政治からの転換といえる。

 そして「後の国風文化の前提となった」という部分については、山川の『詳説 日本史』のP.55に「文学に長じた貴族を政治に登用するなど、文化人を国家の経営に参加させる方針をとった。貴族の教養として漢詩文をつくることが重視され、漢字文化に習熟して漢文をみずからのものとして使いこなすようになった。このことは、のちの国風文化の前提となった。」と記されている通りである。

 以上のことから、解答例のような答案を作成した。


2012.1.7

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