2006年度 『東京大学 その1』

【1】次の(1)〜(4)の文章を読んで,下記の設問に答えなさい。
(1) 律令制では,官人は能力に応じて位階が進む仕組みだったが、五位以上は貴族とされて、様々な特権をもち、地方の豪族が五位に昇って中央で活躍することは多くはなかった。

(2) 藤原不比等の長男武智麻呂は、701年に初めての任官で内舎人(天皇に仕える官僚の見習い)となったが、周囲には良家の嫡男として地位が低すぎるという声もあった。彼は学問にも力を注ぎ、右大臣にまで昇った。

(3) 太政官で政治を議する公卿には、同一氏族から一人が出ることが一般的だった。それに対して藤原氏は、武智麻呂・房前など兄弟四人が同時に公卿の地位に昇り、それまでの慣例を破った。

(4) 大伴家持は、749年、大伴氏などの天皇への奉仕をたたえた聖武天皇の詔書に感激して長歌を詠み、大伴氏の氏人に、先祖以来の軍事氏族としての伝統を受け継いで、結束して天皇の護衛に励もうと呼びかけた。

設問: 奈良時代は、古くからの豪族を代表する「大伴的」なものと新しい「藤原的」なものが対立していたとする見方がある。律令制にはそれ以前の氏族制を継承する面と新しい面があることに注目して、奈良時代の政治と貴族のありかたについて、6行以内(30字×6行の180字以内)で説明しなさい。

<考え方>
 まず心がけておかなければならないことは、日本史の論述も最初にやるべきことは小論文と同じということである。つまり、設問文に次の@、A、Bのラインを引かなければならない。
@何が主題として問われているのか。
A何を書かなければならないのか。
Bどういう条件で書かなければならないのか。
つまり、
@律令制にはそれ以前の氏族制を継承する「大伴的」なものと、新しい「藤原的」なものがある(このことが(1)〜(4)の文章にも示されている。)ことが主題である。
A@をふまえて奈良時代の政治と貴族のありかたについて書く
B180字以内で書く。

 気を付けなければこの段階ですでにポイントを外すことになる。問われているのは奈良時代の政治と貴族のありかたであって、「大伴氏」と「藤原氏」について述べるのではない。しかし、「大伴的」なもの=「以前の氏族制を継承する面」と「藤原的なもの」=「新しい面」は的確に理解して、解答の中で用いなければならない。
 したがって次にやるべきことは、(1)〜(4)の資料で示されている「大伴的」なもの=従来の氏族制の継承=A とする と、「藤原的」なもの=新しいもの=B とする を読み取ることである。

(1)A=五位以上は貴族とされて、様々な特権をもち、地方の豪族が五位に昇って中央で活躍することは多くはなかった。
   B=律令制では、官人は能力に応じて位階が進む仕組みだった。
律令制では新しく個人の能力に基づく官僚制が導入されたが、実際には近畿地方の有力豪族が特権を持つ貴族として政治を独占し、地方豪族は排除されていた。

(2)A=藤原武智麻呂の最初の任官が官僚の見習いであったことに対して、良家の嫡男としては低すぎるという声があった。
  B=藤原武智麻呂は、不比等の嫡男でありながら官僚の見習いからスタートし、学問を積んで右大臣まで登った。
官僚制が導入されても、周囲はそれを重視せず、良家の子弟は自動的に高い官職につくものだと考えていたこと、それに対して藤原氏は学問に基づく官僚制の意味を理解して努力し、その結果として右大臣にまで昇進した新しいタイプの政治家であったことがわかる。
 この時代の学問だが、明経道儒教)が重視されていた。また、奈良時代前期は皇親政治の伝統に基づいてTOP層は皇族が占めていた(左大臣は長屋王)から、儒教的な学識を備え、官僚制のもと皇族以外で右大臣になった武智麻呂がいかに新しいかがわかる。

(3)A=公卿には、同一氏族から一人が出ることが一般的だった。
  B=藤原氏は、武智麻呂・房前など兄弟四人が同時に公卿の地位に昇り、それまでの慣例を破った。
ここまでなら猫でもわかる。問題はなぜ藤原氏が慣例を破ることができたか、にある。その答が上記の(2)であろう。藤原氏の中で武智麻呂一人だけが有能な官僚たらんとして学問を積んだとは思えない。この4兄弟が極めて仲が良かったことは、授業でもよく触れられるところである。
 つまり、儒教的学識を備えた有能な官僚的政治家が、従来の慣例を破って一族として台頭してきたと言える。

(4)これにより、奈良時代においても、大伴氏は氏姓制度以来の軍事氏族としての伝統、つまり特定の職能を世襲で担うという形態(「原始〜大和政権編5 大和政権の政治組織と動揺」参照)を受け継いでいたことがわかる。
→実際、大伴家持は光仁朝での復権後、死去した時の肩書きは中納言従三位、春宮大夫でありながら持節征東将軍でもあったから、有力氏族が特定の職能を世襲で担うという従来の形態や意識が存続していたのは事実である。(コラム「新年之始乃波都波流能 家布敷流由伎能伊夜之家餘其謄」参照)

 これらのことに、君たちが習ってきた知識を加えて180字で述べたい。奈良時代は皇族と藤原氏が10年ごとに政権を争った時代であった。
 そして時代は藤原氏全盛へと動いていく。なぜ近畿地方の有力豪族の一つに過ぎなかった(大化の改新までは小豪族ですらあった)藤原氏が繁栄することになったのか。それはこの「藤原氏の新しさ」にあることを読み取り、まとめることができるか、それが試されている問題である。

<野澤の解答例>
奈良時代は、律令制のもと個人の能力に基づく官僚制が導入されたが、実際には中央の有力豪族が特権を持つ貴族として政治を独占し、地方豪族は排除されていた。当初官僚制は重視されず、有力氏族が特定の職能を世襲で担うという従来の形態が存続していた.。しかし貴族の中から儒教的学識を備えた有能な官僚的政治家が現れ、慣例を破って一族で台頭し、氏族制を継承する勢力は後退していった。(180字)

 ここで確認しておかなけらばならないことは、解答例はいくつも考えられるということである。例えば、同じ問題に対して駿台予備校は、次のような模範解答を示している。

 伝統的な中央の豪族たちは、律令制度の下で貴族となって政権の中枢を担い、官位相当制によって権力を維持・継承したが、一方で官僚としての能力も要請された。当初貴族間の勢力は、ほぼ均衡していたが、藤原氏が天皇家と密接な関係を結び、藤原不比等の四子が慣例を破って同時に公卿の地位に就くなど勢力を伸ばすと、氏族制以来の伝統を掲げて対抗した大伴氏などは次第に勢力を後退させた。(駿台予備校)

 ここでは官位相当制、藤原氏の外戚政策など、資料にない受験生としての基礎知識を登場させている。しかし、設問にある
「大伴的なもの」と「藤原的なもの」とは何か、そして「藤原的な新しさが時代を変えた」のだということに対する読み取りが浅い(というより出来ていない)ようにぼくには思える。
 正直言って、「えっ!こんなのでいいの?」といった感じだが、東大受験指導を看板とする駿台が、これでいいというのだから、これでいいのかもしれない。(なんか天才バカボンみたいになったが・・・)

 いずれにせよ大切なことは、東大の問題は基礎知識としっかりとした資料の読み取りの力があれば解けるということである。

2006.8.14
2029.11.24 解答例を拙著『教科書一冊で解ける東大日本史』と同じものに修正しました。
修正箇所:近畿地方の有力豪族→中央の有力豪族。氏族制は衰退していくことになった→氏族制を継承する勢力は後退していった。

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