『現代編5 戦後日本の経済成長/戦後の文化』

【2】 戦後日本の経済成長  (P.142)

1 高度経済成長の推移
 不況のどん底にあえぐ日本は、朝鮮戦争特需景気1950)で息を吹き返した。ここから約5年ごとに大型景気が来る。ポイントはこの景気の名前と順番である。
 景気の名称は、日本の歴史をどんどん逆上っていく。まあ、名前を覚えたら「アイウエオの逆順」(んむ→と→なぎ)と考えてもよい。
 それぞれ「神武(1955〜1957)」「岩戸(1959・1960・1961)」「いざなぎ(1965〜1970)」で、首相も「55年体制=鳩山」「60年安保=岸→池田」「60年代後半=佐藤」と考えれば分かる。

 その中でも、「神武天皇(神話上初代)が即位して以来最大の好景気」ということで名付けられた神武景気が、一番ネタが多い。1956年の『経済白書』に「もはや戦後ではない」と書かれたことは頻出する。(コラム 「もはや戦後ではない」の真意 へ
 石原慎太郎の『太陽の季節』が発表されたのもこのころ(1955)である。(エピソード「『太陽の季節』と佐藤春夫」へ)
 ところが神武景気を越える大型景気で、「天照大神が天の岩戸に隠れて以来の好景気」と名付けられた岩戸景気の後、東京オリンピックによる好景気がある。そして「日本書紀の1ページ目、日本列島が出来たとき以来の好景気」とされたいざなぎ景気中の1968年に、日本はGNP資本主義国第2位(1位はアメリカ。社会主義国は計画経済)となる。
 この高度経済成長は1973年の石油危機(オイルショック)で幕を閉じる。

2 為替相場の変動(ドル)
  為替相場の変動は大物。「360円1949/ドッジ・ライン)→308円1971/ニクソン=ショック(ドル=ショック)。スミソニアン体制)→変動相場制1973)→円高傾向→プラザ合意1985/円高容認)→円高加速」である。

<発展的な内容:円とドルの固定相場制とニクソン=ショックの意味>

 1949年にドッジ・ラインで1ドル=360円の固定相場制となった。しかし、ドルと固定相場だったのは円だけではない。イギリスのポンドもフランスのフランも、ドイツのマルクも西側諸国の通貨は全部、ドルと固定相場だったのである。
 なぜなら、どの国も戦争でボロボロになっていて、経済が立ち直っておらず通貨に信用がなかった。第二次世界大戦で全くと言って良いほどダメージを受けず、繁栄を謳歌していたアメリカのドルだけが信用があったのである。

 そこで、アメリカは西側諸国の通貨をドルで担保したのである。そしてドルの信用は金が担保した。金本位制とは、通貨の信用を金で担保する方法である。日本の円に信用がなくても、360円出せば1ドルに代わった。そして、そのドルは金に代わった。つまり、ドルだけが金本位制であり、他の通貨は金本位制に基づくドルが担保することで、各国の通貨に信用を与えたのである(ドル本位制)。これをブレトン・ウッズ体制(政経や現代社会では必須事項)という。

 しかし、西欧各国が次第に経済力を回復させ、また日本も高度経済成長を迎えて、アメリカの手持ちのドルが海外へ流出するようになった。西欧諸国の通貨との間では、交換比率の変更が行われていった(このような中、日本だけが1ドル=360円を維持し続けたことが、1971年に突然、360円→308円という大幅な切り上げとなったことにもつながっていく)。そして、1960年代にはドル危機と呼ばれるような状態となった。
 そこへ1965年からベトナム戦争が始まり、アメリカにはドルと交換できる金の準備額がもはや完全に不足するようになった。

 このような中、
1971年8月15日、ニクソン大統領は、突然、ドルと金の交換停止を発表したニクソン=ショックである。世界経済は大混乱となった。ドルと各国の通貨とは、一時変動相場制となったが、12月になって、ドルを大幅に切り下げた固定相場制とすることで協定が結ばれた。この協定に基づく体制を、スミソニアン体制という。日本の円は、1ドル=308円の固定相場となった。

 しかし、このスミソニアン体制は長続きせず、
1973年、日本を含む先進各国は相次いで変動相場制に切り替ることになった。

3 三種の神器
 正誤問題があるので、全てセットで覚えなくてはならない。
@1950年代後半=電気冷蔵庫・電気洗濯機・テレビ
A1960年代末=新三種の神器(3C)=カー(自動車)・カラーテレビ・クーラー」


【3】 戦後の文化  (P.142)

 いろいろとあるが、ほとんど一問一答。
 正誤問題では「ラジオ民間放送が始まったのは戦後(1951)⇔ラジオ放送開始そのものは戦前の1925年(119頁)」「テレビ放送開始は戦後(1953)」など。(近代編後期5『大正・昭和初期の文化』参照)
 文化財保護法1950)は、法隆寺金堂壁画焼損とセットネタ。(法隆寺金堂壁画焼損(1949)の影響で文化財保護法ができた。)
 ノーベル賞受賞者は、全部出題したヒマな大学もあったが、基本は最初が湯川秀樹で二人目が朝永振一郎、ともに物理学で可。
 学問は政治学の丸山真男(『超国家主義の論理と心理』は出るかなと思っていたが、某私大で大塚久雄(経済史学)、川島武宜(法社会学)も問われてびっくりした。しかし難問。登呂遺跡の発掘が戦後であることは、知っておきたい。
 映画監督の黒沢明『羅生門』(ベネチア映画祭グランプリ)は私大では、時々出る。
 四大公害訴訟は全て知っておかなければならないが、これは中学校のレベル。ここでは全て住民勝訴が大切。
 原子力に関してはセンター出題済。神武景気中の1955〜1956年に、原子力基本法、原子力協定、原子力研究所(東海村)と相次いだ。同じ頃南極観測も始まった(1956)。
 
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