(P.133〜134)
この部分は3部構成。まずは開戦から終戦までの流れを、内閣ごとにまとめたものから。
1 開戦から終戦までの流れ
(1)東条英機内閣
第3次近衛文麿内閣が、陸相東条英機と対立して、総辞職した後、組閣の大命は、「日米交渉を継続すること」(9月6日の御前会議の決定の白紙撤回)を条件に、その東条英機自身に下った。
推薦した内大臣が木戸幸一であることは、割と出る。この内閣のキーワードは勿論、『ハル・ノート』→太平洋戦争開始である。
『ハル・ノート』は、満州事変(1931)以前の状態への復帰要求であり、当時の日本としては到底受け入れることは出来ない内容で、アメリカ国内でも批判が起こった。
太平洋戦争のスローガンは「大東亜共栄圏」(⇔日中戦争は「東亜新秩序」)、1941年12月8日にハワイの真珠湾攻撃とマレー上陸で幕を開けた。
1942年には翼賛選挙が行われ、唯一の政治結社として翼賛政治会が結成されたが、これと「新体制運動→大政翼賛会(1940/第2次近衛内閣)」が紛らわしい。また、東南アジアの代表者を東京に集めて開かれた大東亜会議と、田中義一内閣のもと、山東出兵に合わせて開かれた「東方会議(1927)」の正誤問題も見られる。
戦局の大きな流れは、「当初日本軍優勢」→「ミッドウェー海戦の大敗北(1942)が転機」→「サイパン陥落で内閣退陣」である。
(2)小磯国昭内閣
本土爆撃が本格化するのは、次の小磯国昭内閣の時だということは、サイパンが陥落した結果(サイパンから爆撃機は来た)であることが分かれば迷わない。沖縄の悲劇は有名。言いたいことは山ほどあって、言い尽くせないのでやめておくが、鉄血勤皇隊、ひめゆり学徒隊は確実に。(エピソード「戦艦大和の最期」へ)
終戦の時、つまりポツダム宣言を受諾した時の内閣総理大臣は鈴木貫太郎である。常識であるが、広島・長崎に原子爆弾が落とされ、ソ連が有効期限中であった日ソ中立条約を無視してなだれ込んできた。(エピソード「原爆とアメリカの草の根教育」へ)
(3)鈴木貫太郎内閣
鈴木内閣は、8月15日の昭和天皇の『終戦の詔』とともに総辞職した。
降伏文書に調印したのは、次の東久邇宮稔彦内閣の時の9月2日。全権は重光葵(まもる)らだが、会場となったミズーリ号も、なぜか結構聞かれる。
2 戦時下の国民生活
国民生活は、「配給制と切符制」の正誤問題が頻出。「米が配給制以外は、生活物資は全て切符制」だと考えてよい。「未婚の女子→女子挺身隊」は一問一答。「学徒動員→勤労」と「学徒出陣→戦場」の正誤問題もある。
小学生関係の問題としては、「学童疎開は空襲を逃れるためであって、労働力としてではない」こと。「小学校は戦争が始まったころ(1941)に国民学校となった」(センターテストで、ともに出題済)
3 連合国首脳会談
語呂合わせ3点セット。
(1)『しょーちゃん、ベルトにほっカイロ』→『蒋介石・チャーチル・ローズベルト・カイロ会談』
(2)『死後に、スターの茶色いベルトをやる』→『45年2年=スターリン・チャーチル・ローズベルト・ヤルタ会談』
(3)『横ならび、スターダムはあとでとる』→『45年7月=スターリン・ポツダム会談・アトリー・トルーマン』
入試のポイント。「ヤルタ会談で、ソ連は対日参戦を約束」していた。そして、『ポツダム会談は米・英・ソ→ポツダム宣言は米・英・中』は正誤問題で頻出する。理由はポツダム宣言時は、まだソ連は対日参戦していなかったからである。
カイロ、ヤルタ、ポツダム(ベルリン郊外)の位置は、地図でチェック。
日本の植民地政策、特に朝鮮での皇民化政策は、「3つ記せ」(立教大学)などの入試問題の有無に関わらず、知っておかなければならない。
「創氏改名」「神社参拝の強要」「日本語の強制(朝鮮語の使用禁止)」など。
朝鮮・台湾で徴兵制を実施し、鉱山などの労働力として強制連行したこと。そして「従軍慰安婦問題」も今だに解決されていない課題である。
2010.3.5改訂