エピソード 「原爆とアメリカの草の根教育」

 私事だが野澤家の墓は広島市にある。ぼくの父親の実家が、広島市南区にあるためだ。
 小学校の4年生か5年生だったと思う。夏休みに家族で、いわゆる「広島のおばあちゃん家」(父の実家)へ行った時、ぼくは二階の屋根と壁との間に小さな隙間があって、そこから光が差し込んでいることに気付いた。そのことを父に言うと、
「あれは原爆の影響なのだ。この家は比治山の陰になったおかげで焼け残ったが、その時の衝撃で天井が歪んだのだ。」と教えられた。
 この話が真実なのかどうかは分からないが、ぼくはその日の午後、父に連れられて初めて平和記念資料館へ行き、衝撃を受けることになった。衝撃というより正直言って怖かった。原爆、戦争というものを初めてまじめに考えた時だったと思う。
 そして平和記念公園で見たものの中で一番印象に残ったのが、資料館を出た後に見た原爆死没者慰霊碑であった。

安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから

凄くインパクトのある不思議な言葉であった。「そうだ、こんな酷いことは二度と起こしてはならないのだ」と、子ども心にも思った。

 この有名な言葉を刻んだ慰霊碑は、原爆投下から7年後の1952年8月6日、当時東大助教授であった丹下建三氏の設計で完成した。

 しかし、1952年11月、極東軍事裁判の判事であったインドのパール博士が、この碑を訪れて「原爆を落としたのは日本人ではない。落としたアメリカ人の手は、まだ清められていない」と発言したことをきっかけとして、いわゆる碑文論争がおこった。主な論争点は、碑文の主語は誰なのか。誰が「過ち」を繰り返さないといっているのか。原爆を投下したのはアメリカなのだから、「繰返しませぬから」ではなく「繰り返させませぬから」ではないのか、といったことであった。ここから「碑文は犠牲者の霊を冒漬している」として、碑文の抹消・改正を要求する運動がおこり、今も続いている。慰霊碑はペンキがかけられたり、傷付けられたりもした。

パール博士は、東京裁判の判事として日本側被告の全員無罪を主張した人物であった。彼は東京裁判の事後法的性格を指摘、戦争における個人責任を否定して、むしろアメリカの原爆投下命令こそが問題にされるべきだと強調した。ちなみに野澤家の墓がある寺には、このパール博士による『大亜細亜悲願之碑』がある。)

 この碑文を選定したのは、自らも被爆者であった雑賀忠義氏(広島大学教授)であった。彼は「過ち」の主語の解釈について
広島市民であると共に世界市民であるわれわれが、過ちを繰返さないと誓う。これは全人類の過去、現在、未来に通ずる広島市民の感情であり良心の叫びである。『原爆投下は広島市民の過ちではない』とは世界市民に通じない言葉だ。そんなせせこましい立場に立つ時は過ちを繰り返さぬことは不可能になり、霊前でものをいう資格はない」と語ったと伝えられる。(広島大学50年史編集室)

 また、ノーベル平和賞受賞者のボイド・オア卿(イギリス)は「過ちを繰り返すかどうかは私たちの責任である。世界は口をそろえて一つのことをいわねばならぬ。『戦いはこれを最後にしなければならぬ』と」と述べている。

 碑文の感想はその人の立場によって異なる。広島市は碑文について、1983(昭和58)年に、次のように記した日本語・英語の説明版を設置した。

広島平和都市記念碑 (原爆死没者慰霊碑) 昭和27年8月6日設立
  この碑は 昭和20年8月6日 世界最初の原子爆弾によって壊滅した広島市を 平和都市として再建することを念願して設立したものである  碑文は すべての人びとが 原爆犠牲者の冥福を祈り 戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉である 過去の悲しみに耐え 憎しみを乗り越えて 全人類の共存と繁栄を願い 真の世界平和の実現を祈念するヒロシマの心が ここに刻まれている  中央の石室には 原爆死没者名簿が納められており この碑は また 原爆慰霊碑とも呼ばれている


 ぼくがこの原爆慰霊碑文のことを改めて思ったのは、1997年に長期のアメリカ出張を体験した時であった。アメリカに着いて10日ほどたった日曜日。ぼくは、シカゴ周辺の先生たちの研究大会に参加する機会を得た。会場では、様々なテーマの教育活動について発表が行われていたが、ぼくはコーディネーターの先生の勧めで、社会科の研究会に参加した。(実はこの先生が、社会科部会の司会者も務めていた。) 
 そこで体験したのは、黒人女性の先生による原爆の悲劇をいかに子どもたちに教えるかという取り組みについての発表であった。最初に「だまし絵」を使って、物事は様々な視点から見なければならないという導入が行われ、教材として絵本の『怒り地蔵』が使用されていた。
 
 質疑応答の時間になって、司会者が盛んにぼくに目配せをした。ぼくは挙手して簡単に自己紹介した後、次のように言った。「To tell the truth, I'm very surprised. Because We, Japanese know that・・・」(正直言ってとても驚いています。というのは私たち日本人は、あのスミソニアンでの原爆展が中止になったことを知っているので、アメリカ人はこの話題には触れたがらないし、知りたいとも思っていないのだと考えていました。しかし、今日ここへ来て、先生方があの悲惨な原爆について真摯に受け止めておられること。そしてそのことを正しく子どもたちに伝えようと努力されていることを知り、とてもうれしく思いました。)

 ぼくの話を聞いて、発表者の先生は「あのスミソニアンでの原爆展中止の件で、こころを痛めているアメリカ人もいるのです。」と言われた。すると、白人の男性教師が挙手をして、次のように言った。
アメリカにはいろいろな立場の人がいる。あの日本との戦争で家族を亡くした人、退役軍人。原爆を教えるにはそのような人の立場を考慮しなければならない。だからこれは簡単に取り上げられるテーマではない。
 それに対して発表者が「そのいろいろな見方を、どう子どもたちに分からせるかという話をしているのではないか。」と短く反論した。司会者が再びぼくに発言を促す視線を送ってきた。

 その時、ぼくはこの原爆慰霊碑文について語ろうと思った。原爆を落とされた側である日本が、なぜ「過ちは繰り返させませぬ」ではなく「繰り返しませぬ」と言っているのか。この思いを理解し共有することこそが、これからの日本・アメリカ両国に必要なのではないか。そしてその心を伝えることが、日本の一地方都市の歴史教員であるぼくが、アメリカへ来た意義なのではないか。そんな思いがまるで竜巻のように湧き上がってきた。

 しかし、ぼくは手を挙げられなかった。それは自分の意見に自信がなかったからではない。この思いを伝えることが出来るだけの自分の英語力に自信がなかったからである。アメリカの一地方の先生たちの勉強会であっても、日本人として原爆を語る以上、自分の発言には責任を持たなければならない。誤解されてはならない。そう思ったら、コミュニケーション能力に自信が持てなかった。結局、勉強会は時間となり散会した。

 その後ぼくは、シカゴ郊外の高校で約1ヶ月の間、日本の文化や産業などについて授業をしたり、生徒の質問に答えたりする機会を与えられたが、戦争や原爆のことが話題になることは一度もなかった。

 今、このHPを見てくれている君たちへ。
 確かにアメリカにはいろいろな立場の人がいる。原爆投下は正義だと堂々と主張する人もいる。原爆投下が非戦闘員の殺害を禁止した国際法に違反するのは明らかであり、これにはぼくも強い憤りを感じる。しかしその一方でアメリカには、原爆の悲劇をいかに子どもたちに教えるかという、草の根の教育活動をしている先生もいるのである。これからの時代を生きていく君たちに、そのことは分かって欲しい。
 と同時に、しっかり語学の勉強をして欲しい。「言葉は通じなくても心は通じる」なんて嘘である。「言葉が通じなければ心は通じない」
 それはもちろん、日常的な当たり障りのないことなら、身振り手振り、表情で通じるだろう。しかし、本当に分かり合いたいことは、最初に言葉ありきである。

 8年前のあの時、ぼくは手を挙げて、せめて原爆慰霊碑文の存在(雑賀忠義氏の英文訳は、「Let all the souls here rest in peace ; For we shall not repeat the evil」である。)だけでも話すべきだったのだろうかと、8月6日を迎えるたびに思い出す。

 

          広島原爆死没者慰霊碑

 2005.8.6

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