『近代編後期6 軍部の台頭』

【5】 軍部の台頭  (P.129〜130)

 教科書はテーマごとですが、ここでは内閣ごとにまとめました。

1 第2次若槻礼次郎内閣
 浜口雄幸が、死去した後、第2次若槻礼次郎内閣が成立する。民政党の内閣だから、協調外交、外相は当然幣原喜重郎となる。最大の目玉は柳条湖事件満州事変
 柳条湖事件(1931)は奉天郊外(張作霖爆殺も奉天郊外)で南満州鉄道を関東軍が爆破して、軍事行動を開始した。政府は不拡大方針であったが、軍部は無視、世論も軍部を支持し、閣内不一致(内相安達謙蔵の協力内閣論は難問)もあって若槻A内閣は退陣した。関東軍の参謀石原莞爾(『世界最終戦論』)も知っておきたい。(エピソード「カリスマ?石原莞爾」へ)
尚、若槻内閣の時、十月事件、浜口内閣の時三月事件という軍部のクーデタ未遂事件が起こったが、これらの事件に対する処分が極めて軽かったことが、五・一五事件を誘発する一因にもなった。

2 犬養毅内閣
 犬養毅内閣は立憲政友会だから、蔵相はお約束の高橋是清である。犬養内閣で取り上げられている項目は、全て重要。ポイントの整理を。
 「蔵相高橋是清金輸出再禁止(←井上準之助=金解禁)」「血盟団事件(井上日召)→正誤問題で、犠牲となった前蔵相井上準之助)と三井幹部(団琢磨)の差し替えがある」「満州国建国宣言(1932=五・一五事件と同じ年)→儀(字に注意。浦+寸)→犬養は承認を渋る」「五・一五事件1932)=海軍陸軍ではない!)青年将校→犬養首相暗殺憲政の常道終わる

3 斎藤実内閣
 犬養内閣の後成立した斎藤実内閣は、挙国一致内閣とか中間内閣と言われるが、なぜ? 答。斉藤は海軍出身であったが、この内閣には軍部も官僚も政友会員も民政党員も入閣した(挙国一致)ので、軍部内閣でも政党内閣でもない(中間内閣)から。
 斎藤内閣のベースは「日満議定書(満州国承認)→リットン報告書(リットンはイギリス人)→国際連盟脱退(1933)=代表松岡洋右」 一方、塘沽(タンクー)停戦協定が結ばれ、満州事変は終わった。
 ここでちょっとペースダウン。ノートにある「農村云々」て何だ?山川の教科書では昭和恐慌の流れで載っていますが、時期に合わせてここでまとめました。つまり、「昭和恐慌で農村は『欠食児童』『女子の身売り』という状況」→「農村救済請願運動」→農村へ土木事業などの公共投資→事業縮小→「農山漁村経済更生運動(自力更生=自分たちで何とかせい)」となった。

4 岡田啓介内閣
 斎藤内閣の後、海軍穏健派の岡田啓介が組閣した。ここは二本柱。「天皇機関説問題国体明徴声明」(美濃部の発禁本『憲法撮要』は選択肢では選べてほしい。) 「二・二六事件岡田内閣崩壊(首相は暗殺されていない)」である。
 二・二事件(193)は、下一桁の数字が同じ。暗殺された3人を正確に覚える。「蔵相高橋是清」「内大臣斎藤実」「教育総監渡辺錠太郎」 事件は北一輝(『日本改造法案大綱』)の影響を受けた皇道派陸軍青年将校によって起こされた。岡田首相は難を逃れたが、内閣は崩壊した。(エピソード「テロの時代」へ)

5 広田弘毅内閣
 二・二六事件の後、世間の関心は東京駅に降り立った一人の老人に注がれた。『最後の元老』西園寺公望である。二・二六の標的ともされていた西園寺は、元老などという影のフィクサーが政治を左右するような時代は終わらせるべきだと考えていたので、自分の後継元老を作らなかった。その彼が、誰を首相に推挙するか、関心はそこに集まった。そして成立したのが広田弘毅内閣である。
 広田内閣のキーワードは、「広義国防」「軍部大臣現役武官制復活→広田は戦後、文官で唯一死刑となる」「『国策の基準』→ドイツと提携、軍備拡張」「日独防共協定(1936)」「西安事件(1936)=張学良蒋介石を監禁→第2次国共合作」といったところ。

6 宇垣一成・林銑十郎
 広田内閣は軍と政党の両方の反発で、短命に終わったが、問題はここからである。組閣の大命は「宇垣軍縮(陸相時代、大規模な軍縮を行った)」の宇垣一成に下ったが、これに反発した陸軍はたちまち広田内閣で復活した「軍部大臣現役武官制」を利用して陸相を推挙せず、内閣は不成立となった。林銑十郎のキ−ワードは「軍財抱合」(軍部と財界の調整)のみ。


2010.3.5改訂

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