エピソード 「カリスマ?石原莞爾」

 僕が石原莞爾に興味を持ったのは、かつて御一緒した日本史のN先生の、名前にまつわる話からである。N先生の父親が、若い時関東軍に配属になり石原莞爾に会った。石原参謀は彼に「君は軍人勅諭を覚えているか」と聞いたそうである。「はい、覚えています」と答えると、「そんなもの覚えてる時間があったら、高射砲の角度の計算式でも覚えた方が、よっぽどいいぞ」と言われた。この石原参謀の人となりに魅了されて、「将来、自分に男の子が生まれたら、参謀殿のお名前をいただきたい」と頼んだ。字まで全く同じというのは恐れ多いので、音を同じにしたのがN先生の名前の由来だという。

 このN先生は非常にお話の上手な人なので、真偽のほどは分からない。ただ石原莞爾という人物像をよく表している。
 石原莞爾ほど現在も評価が分かれ、かつ話題に登る軍人もいないのではないか。2002年度だけでも2つの漫画に登場し、『世界最終戦論』も復刻され、インターネットを見ても絶賛しているサイトと、「狂信的法華経信者」とぼろ糞にこき下ろしているものと両方ある。(そう言えば、北一輝、井上日召、石原莞爾、宮沢賢治は、ほぼ同世代の熱烈な日蓮宗信者だね)
 陸軍には荒木貞夫( エピソード「テロの時代」へ)のような愚かな精神主義論者が跋扈していた中で、明晰な頭脳と卓越した合理的思考力を持った人物だった。

 大きな流れは「満州事変の首謀者二・二六事件鎮圧の功労者日中戦争には反対戦後は熱心な反戦主義者」となる。(かつて早稲田大学の入試問題(1993)に、石原が日中戦争の推進派だったか、不拡大方針だったかを受験生に判断させる悪問があったなぁ。)
 昭和天皇も石原について「満州事変は暴挙、二・二六事件での行動は快挙」と考えていたという逸話もある。その満州事変の話である。柳条湖事件時、関東軍の兵力1万人に対し中国軍は25万人、更に装備も中国軍の方が良いものが多く、圧倒的に関東軍が不利な状況だった。しかも、政府は不拡大方針であった。
 しかし、関東軍は朝鮮軍の増援を得るなどして、わずか5ヵ月で満州全域を占領。それ故、石原は「戦争の天才」と称されようになった。しかし、この事件は、次の2点で、日本軍に大きな影響をもたらすことになる。
1. 中国軍の実力を極端に軽視し、日本軍を過大評価するようになったこと
2.出先の部隊が軍中央部の命令に従わず独断専行しても、結果さえ良ければ褒章を受けることはあっても処罰されることはない、という風潮が広まったこと

 後に日中戦争が勃発した際、不拡大方針の石原は、「あなたが満州でやったことと同じことをしてるんですよ」と言われ、自ら蒔いた種に苦しめられることになる。
 ではなぜ石原は、日中戦争には反対だったのか。大雑把に言えば、来るべき最終戦争では、中国と協力してアメリカと対抗しなければならないと考えていたからである。ここで『世界最終戦論』が、問題となってくる。
 山川の教科書には「東西文明の中心となる日本とアメリカの飛行機による最終的な殲滅戦争になるから、これに対して準備しなければならないとする論」とある。付け加えると東亜・欧州連合対アメリカ・ソ連連合の戦いであり、この戦争をもって、世界が統一され、国家の対立がなくなり、戦争がなくなる。そのためには、東亜連盟を結成し、20年を目標に生産能力をアメリカに匹敵するものにしなければならないと考えていた。
  満州については、もともと万里の長城より北に位置しており、漢民族の地域ではない。しかも中国というより、ソ連(ロシア)から取ったようなものであり、中国も無理して固執しないだろうという読みもあったかと思う。(事実、塘沽停戦協定で、満州事変そのものは終わっている)現在の日本の国力では、満州は維持出来ても、中国は押さえられないとの、至極当たり前の判断もあったであろう。
 しかし、強硬論の前に不拡大方針は吹き飛び、全面戦争へと発展していった。石原も中央から外され、やがて予備役へと回されることとなる。

 とまあ、普通ならこれで終わるところだが、石原莞爾をカリスマ的に讃える人にとっては、ここからが(も?)魅力なのだろう。
 実は彼は、軍事関連よりも、政治や日本の進路に関する著作の方が多い。そして、敗戦後、死亡するまでのわずかな期間にも、活発な著述活動をしている。その中では「農工一体・都市解体・簡素生活」という三原則が繰り返し述べられている。
 その内容を今風に言うと「(情報・通信システムの有効利用によって)都市への人と物の集中問題を解決し、農村に目を向けることで食料自給率を高め、エコロジー運動によってエネルギー危機に備える...」どこかで聞いたことありません?「アメリカと並ぶ経済力をつけ、中国・アジア諸国・ヨーロッパと組んで、アメリカに対抗する」も、ともに今言われている事ばかりです。
 僕が見たことがある石原莞爾の映像は、病死する少し前、取材に応じて熱く反戦・平和を訴える姿である。石原莞爾は1949年の奇しくも終戦の日(8月15日)に、61歳で世を去った。 

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