かつて一緒に勤務した同じ日本史のS先生との会話。
ぼく:「佐郷屋留雄(浜口雄幸を狙撃した)なんか、最近入試に出てるんかなぁ。中岡艮一(こんいち)(原敬暗殺)は当時未成年だったから、今の時代絶対出んやろ。日本史で受験にでる、最初のテロリスト(言葉は不適切かも知れませんが)は誰やろな。津田三蔵(大津事件)か?」
S先生(すかさず):「それはきっと、東漢直駒(やまとのあやのあたえのこま)じゃないか」
ぼくは近代史しか頭になかったから、これには笑った。ウマイね〜。(ちなみに東漢直駒とは蘇我馬子の命で592年に崇峻天皇を暗殺した人です)
さて、話を1930年代に戻したい。1930年9月、橋本欣五郎を中心に、中堅将校の秘密結社桜会が結成された。この桜会が三月事件、十月事件(桜会に大川周明(猶存社)という民間右翼が加わり、首相らを暗殺して荒木貞夫を首班とする内閣をつくろうと図った)というクーデタ計画の中心となる。十月事件の後、陸軍の実権は皇道派と呼ばれる国家改革を唱える青年将校のグループが握った。中心人物は荒木貞夫・真崎甚三郎である。しかし、五・一五事件以来、斎藤、岡田と海軍出身の内閣が続き、軍拡も海軍主導で進められると、陸軍内部には皇道派を批判して、陸軍省・参謀本部などの幕僚将校を中心に、軍部内の統制強化を主張する統制派が台頭してきた。中心は永田鉄山、東条英機(太平洋戦争開戦時の首相)である。
皇道派が北一輝の『日本改造法案大綱』などの思想的影響を受けて、クーデタによる軍部独裁政権樹立を目指していたのに対し、統制派は軍部の下に官僚・財界・政党を動員するいわゆる国家総動員体制を図っていた。
1934年1月、約2年の間陸相であった荒木が辞任し、後任が統制派の林銑十郎。さらに3月には永田鉄山が軍務局長に就任し、陸軍省の実権を掌握。翌1935年の7月には陸軍教育総監であった真崎甚三郎が罷免され、後任が渡辺錠太郎(二・二六事件で暗殺)となった。この流れだけを見れば、統制派による皇道派の追い落としのようにも写る。8月、皇道派の相沢三郎中佐が永田鉄山を斬殺(相沢事件)。これに対し統制派は皇道派の牙城であった東京の第一師団を満州へ追い払う方針をとった。相沢事件が二・二六事件を誘発したと言われる所以である。
しかし、そもそも荒木は陸相時代に「竹槍三千万本があれば列強はおそるるに足らず」と言って呆れられた、陸軍の「愚かな精神主義の権化」のような男であった。反面青年将校の面倒みは良く、正月や祭日に泥酔状態で陸相官邸にやって来て暴言を吐くような連中を、「若い者は元気がいいのう」といって可愛がるから人気があった。
だが政治的見識は、高橋是清蔵相に「要するに君はどうしたいというのだね」と問われると、全く返答出来ないという有様だった。荒木が陸相をやめた後、予定では真崎が後任となるはずだったが、閑院宮(覚えてる?新井白石が創設した宮家!)が林を強く押したと『木戸幸一日記』(木戸幸一は太平洋戦争の項で登場)にはある。真崎は天皇機関説問題(美濃部達吉は昭和天皇の侍講を勤め、天皇自身も機関説であったといわれる)では在郷軍人を扇動し、一方で機密事項を取り巻きの若い将校に勝手に教えるなど、極めて評判が悪かった。教育総監更迭に際しても、真崎自身は猛反発したが、これまた閑院宮が強く罷免を主張している。後任となった渡辺錠太郎は中立的存在だった。こうして見ると、荒木・真崎ラインの更迭には、昭和天皇の意図があったのではないかと思いたくなる。
その真崎らにいじめ倒されていた永田鉄山は、陸軍を代表する俊才で見識も広く、それなりの改革案を持っていた。
さて、二・二六事件が起こると、決起を事前に聞いていた真崎は、大喜びの英雄気取りであった。陸軍の主導権は真崎らが握り、反乱を賞讃するともいえる陸軍大臣告諭が出された。翌日戒厳令が出されると、反乱部隊は戒厳部隊へ編入、つまり政府軍となり、クーデタは成功したかに見えた。反乱軍の要求は、真崎を首相にし、処理を一任するというものとなった。
しかし、真崎らの思いもかけなかった事態が起こる。
側近を殺された昭和天皇が激怒し、鎮圧を厳命したことである。昭和天皇が「朕が最も信頼せる老臣を悉く倒すは真綿にて朕が首を締むるに等しい行為である。朕自らが近衛師団を率いて鎮定に当らん」と言った話は有名である。海軍も連合艦隊を東京湾に集結し、反乱に対決する姿勢をとった。政財界や世論も味方せず、29日になって陸軍は一転して「反乱を鎮圧する」という姿勢に変わった。次は、戒厳司令部が撒いたビラである。
下士官兵に告ぐ
一、今カラデモ遲クナイカラ原隊ヘ歸レ
二、抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル
三、オ前達ノ父母兄弟ハ國賊トナルノデ皆泣イテオルゾ
二月二十九日 戒 嚴 司 令 部
ラジオでも中村茂アナウンサーが、「兵に告ぐ、今からでも遅くないから原隊へ帰れ。そうすれば許される」という感涙窮まるアナウンスを流した。「今カラデモ遅くない」は流行語となった。
事件後、統制派は陸軍の実権を握り、粛軍の名のもとに反対派を追放するとともに、組閣人事をも左右し、国家総動員体制の構築へと向かっていくこととなった。
事件の中心となった17名は死刑となった。ところが真崎は裁判の結果、無罪となる。代わりというべきか、クーデタには明らかに直接関与してはいない北一輝らが死刑となった。責任が陸軍の上層部の者に及ぶことはなく、事件は処理された。
一連の出来事を見て、為政者の危機管理能力の乏しさや無責任主義を責めることは簡単である。しかし、国民の意識も問われなければならない点があると僕は思う。例えば、血盟団事件では井上日召らの裁判に、減刑嘆願書が三十万通も届けられたという。確かに『女子の身売り』などの当時の世情を抜きにして事件を語ることは、一面的ではある。だが戦後になっても「団琢磨を暗殺した人物が、関東のある県の県議会議長にまでなったという事実」を、この国で生活する者として考えてみる必要がある。