『近代編前期6 初期外交と条約改正』

 教科書では、「初期の国際問題」と「条約改正」とに大きく分けているところです。理由は征韓論争(1873)をやらないと、その後おこる自由民権運動、士族反乱(西南戦争)への流れがつかめないからでしょう。
 それはその通りなのですが、「征韓論から自由民権運動へ」は、小中学校の社会や歴史の教科書にも載っている内容なので、ここでは明治期の外交を集めて、まとめてみました。

【5】 初期外交と条約改正 (P.108〜109)

1 初期外交

(1)対中国関係
 日清修好条規(1871)=伊達宗城・李鴻章→お互いに治外法権を認めているという極めて変則的ではあったが、対等条約であった。
(2)対朝鮮関係・・・これが最も重要!
 江華島事件1875)→日朝修好条規(1876)不平等条約を押しつけ、釜山・仁川・元山を開港させた。
 朝鮮に対する考え方は、第一議会の時、首相の山県有朋が、「国境=主権線、朝鮮=利益線」と述べたことからもうかがえる。
(3)対琉球関係
  いわゆる琉球処分とよばれる沖縄県設置(1879)。沖縄藩を設置した1872年は廃藩置県(1871)より後。藩王とされた最後の琉球王尚泰と自由民権運動に携わった謝花昇も知っておきたい。
(4)対台湾関係
 琉球の漁民殺害をめぐって、台湾出兵(1874)。これに反対して木戸孝允下野。(前年「内治優先」として征韓論を退けておきながら、翌年国外へ出兵するのでは筋が通らないと主張。台湾出兵が決定され下野した。)
 この時、兵員の輸送に成功して、三菱が発展する契機となった。清が日本の義挙と認め、解決。これを機に、日本は琉球処分に走る。
(5)対ロシア(北方領土)関係
 樺太・千島交換条約1875)=全権榎本武揚日露和親条約で定められた国境線(ここでもう一度チェック!択捉島得撫島間が国境。樺太は両国人雑居地)を変更→「日本領=千島列島・ロシア領=樺太」となる。
 入試問題で、「北海道開拓使長官であった(   )の意見に基づき・・・」というのがあった。誰? ここで降参したら駄目よ。君たちが習う開拓使長官って一人しかいないでしょう。「開拓使官有物払下げ事件→明治十四年の政変」の黒田清隆。正解です。
(6)この他、小笠原諸島が日本領と認められた。(内務省管轄→東京府管轄)

 条約改正 
 とにかく、担当者の順番と、キーワードを正確に覚える。
(1)岩倉具視(右大臣)条約改正の予備交渉。最初の訪問地アメリカで挫折。津田梅子ら留学生が同行。国内の征韓論の高まりを知り、予定を切り上げて帰国。同行した久米邦武が「米欧回覧実記」を著す。(久米邦武はのちに「神道は祭天の古俗」という論文を発表して弾圧され、帝大教授辞職に追い込まれる人物である。)
(2)寺島宗則(外務卿)=税権回復ねらい→米は賛成したが、自由貿易を主張する独の反対で無効。これ以降、優先課題は法権の回復となる。
  なお、寺島と時、ハートレー事件(イギリス商人によるアヘン密輸事件が領事裁判で無罪となった)もおこっている。
(3)井上馨(外務卿のち内閣制度発足とともに外務大臣)=「外国人判事任用・内地雑居外国人が日本国内で自由に活動できる権利)」・「極端な欧化政策=鹿鳴館時代ボアソナード、谷干城ら反対ノルマントン号事件(1886。紀州沖でイギリス船が沈没)から三大事件建白運動がおこり辞任。(エピソード「結ばれたロミオとジュリエットー大山巌と鹿鳴館の華ー」へ
(4)大隈重信(外務大臣)=「外国人判事を大審院に任用」・国別交渉→右翼(玄洋社・来島恒喜)の爆弾テロで負傷、辞任(ちなみにこの事件で、黒田清隆内閣も総辞職した)。
(5)青木周蔵(外務大臣)=「最大の難関だったイギリスが、ロシアの南下に備えるため、日本に好意的になった」(丸暗記)大津事件で引責辞任。大審院長児島惟謙が司法権の独立を守った話はこの事件に際してのもの。(エピソード「大津事件その後」へ)。
(6)陸奥宗光(外務大臣)=「日英通商航海条約」で内地雑居を認めるかわりに、法権回復に成功」。さらに最恵国待遇は片務的から双務的(相互対等)となり、関税の一部引き上げられた。
 条約調印は
日清戦争開始の直前、駐英公使であった青木周蔵によって実現した(1894。それを記した史料として陸奥の回顧録「蹇々録」が出題される。
(7)小村寿太郎(外務大臣)=「日米通商航海条約改正」で税権回復(1911)

  <条約改正と内地雑居>
 
 日英通商航海条約で、治外法権の撤廃に成功したことと、内地雑居を認めることは、セットであった。

 残念ながら2018年現在、山川の『詳説日本史B』には、このことは記されていない。
井上馨による交渉のところで、「日本国内を外国人に開放する(内地雑居)かわりに、領事裁判権を原則として廃棄する改正案が、欧米諸国によって一応了承された」と記されているだけである。
 しかし、受験生は、これが井上馨の時だけでなく、その後もず〜と改正交渉の基本であったことを理解していなければならない。
 日米修好通商条約では、外国人が活動できる場所は限定されていた。外国人が自由な経済活動を行うためには「日本国内が外国人に開放される(内地雑居)」ことは、不可欠であった。そのため、当初より、明治政府は欧米の求める内地雑居を認めるかわりに、領事裁判権で欧米の譲歩を引き出し、関税自主権を実現しようという方針をとっていたのである。

 初期議会のところで「
対外硬派連合」というのがでてくるが、これは「外国に妥協的な改正交渉はやめて、不平等条約を厳密に履行すればよい。不平等条約では内地雑居は認めていないので、経済活動を活発にしたい欧米は、内地雑居を求めて条約交渉を申し出ざるを得なくなってくる」という意見であった。

 
実教の『日本史B』には「日清戦争の開戦の直前に日英通商航海条約の調印に成功した。その後、列国とも同様の条約をむすんだ。これにより日本は内地開放(内地雑居)を認める一方、領事裁判権の撤廃、最恵国待遇の双務化、関税率の一部引き上げを実現した。」とはっきりとその関係が記されている。また、山川の教科書でも『新日本史B』には日英通商航海条約は内地雑居が内容にあることが書かれている。
 
 領事裁判権を撤廃は、内地雑居を認めることとセットネタであることを理解しておきたい。

<条約改正が成功した理由>
(1)産業革命に成功するなど、国力が充実していたこと。
(2)近代的法典が整備されていたこと。
(3)2度の戦勝(日清・日露戦争)により国際的地位が向上していたこと。
(4)条約改正が、国民的要望に支えられていたこと。

2005.10.7加筆
2018.3.24 「条約改正と内地雑居」を加筆

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