エピソード「結ばれたロミオとジュリエットー大山巌と鹿鳴館の華ー」

 井上馨のいわゆる鹿鳴館外交は、外国人の目にはどのようにうつっていたのだろうか。
 フランスの海軍士官ピエール・ロティの小説として描かれた鹿鳴館は、その名も「江戸の舞踏会」であった。日本人の振る舞いは「どえらい笑劇」であり「まったく素晴らしい猿真似」だとある。猿真似といえば、ビゴーによって描かれた鹿鳴館外交の日本人紳士淑女は、そのまま猿である。外国人と日本人の交際の場であるはずが、実際に踊っていたのはほとんど外国人であり、日本人は横で見ているだけであった。さすがに鹿鳴館開館から一年以上経過して、やっとダンスの練習会が始められたが、講師のヤンソンは獣医学を教えるために招かれたお雇い外国人であった。(しかし、ヤンソンは優れた指導者だったらしく、この練習会での成果は上々で、舞踏会は形となっていった。)
 西洋では「良家の子女」の素養としてダンスがあり、舞踏会があった。ところが、日本の社交界で動員されたのは玄人、すなわち芸者たちであった。これについては、津田梅子が、11年間母親代わりであったアデリンに宛てた手紙の中で「伊藤夫人、九鬼夫人、吉田夫人など1ダースもの芸妓出身の女性が高官の男性に近づいて愛人となり、やがて正妻におさまりました。きちんとした女性が男性に正当に扱われる社交界は日本にはないのです。」と嘆いていることからもうかがえる。
 そんな中で、西洋風の「良家の子女」として「鹿鳴館の華」と羨望を集めた女性がいた。大山巌の妻捨松である。

 山川捨松は、津田梅子と同じ日本最初の女子留学生の一人である。捨松とは女の子にひどい名前だと思われるかもしれないが、幼名は咲子。捨松は彼女を12歳で留学させる時、「あんな小さい娘を海外に追い出すなんて、母親は鬼だ」と噂された母が、「一度は捨てるが将来を期待してマツ」という意味で改名させた名である。(父親は彼女が生まれる前に他界)
 会津藩出身と言えば分かると思うが、戊辰戦争を8歳で体験し、辛苦を嘗めることとなる。後に彼女が会津戦争の体験を語った記事が、アメリカの雑誌に載ったほどであり、この戦争体験は生涯を通して忘れられない記憶であった。
 彼女は、名門バァッサー大学に進学。卒業式には「日本に対する英国の外交政策」という題で講演し、新聞で報じられた。卒業後は、ニューヘブンの市民病院で看護学の勉強をし、甲種看護婦の資格を日本人で初めて取得した人となる。
 帰国後、留学生仲間の永井繁子と海軍武官瓜生外吉の結婚パーティで、「ベニスの商人」を演じたが、この時美しい捨松を見初めたのが、薩摩出身の陸軍中将で大臣の大山巌42歳であった。大山は先年3人の娘を遺して妻に病死されていた。24歳の捨松を後妻にとの結婚申込みであった。
 しかし、大山は会津の旧敵薩摩人で、事実戊辰戦争では会津若松城を砲撃した隊長であった。さらに捨松の兄嫁はこの砲撃で死亡していた。当然、山川家はじめ会津側は大反対だった。
 ところが、この結婚を決意したのは捨松自身であった。大山を女性を大切にする素晴らしい人だと思ったらしい(実際、大山は捨松を大切にしたようである)。アメリカの親友アリスに、「どんな反対があっても、私はこの人と結婚する」と書き送っている。
 かくして、陸軍大臣夫人で3人の娘の母となった大山捨松は「鹿鳴館の華」と呼ばれるようになる。また捨松は鹿鳴館でバザーを開き、この収益金で有志共立東京病院(慈恵医大の前身)所属の、我が国初の看護婦学校を設立した。
 大山巌との間には、二男一女の子に恵まれた。晩年は徳富蘆花の小説『不如帰』の意地悪な継母のモデルとされ、中傷されて苦しむが、実際の捨松は前妻の3人の子にとってもよい母であった。そのことは前妻の末娘の留子が生涯、美しく聡明な母と慕っていたことからも分かる。
 日露戦争の時、大山巌は満州派遣軍総司令官であった。捨松は、アメリカの週刊誌や『ロンドンタイムス』に寄稿し、日本の立場を世界に訴えている。日露戦争後、大山巌は公爵・元帥に出世した。

 とまあ、これでは山川捨松の人物像は分かっても、死に際しては近代陸軍の創始者として国葬にまでなった大山巌という人物が分かりませんね。そこで、彼のエピソードを1つ。
 明治3年、普仏戦争の観戦武官として渡欧した彼は、外国語が出来ないことがよほどこたえたらしい。帰国するや陸軍大佐兼兵部権大丞の要職を辞して、4年間スイスのジュネーブに語学留学する。大山巌30歳の時のことであった。
 当時すでに50人ほどの日本人がいた繁華なパリではなく、日本人が一人もいないジュネーブを選び、しかも陸軍学校などに籍を置かず、最後まで下宿住まいで勉強したことからも、彼の意気込みがうかがえる。
 しかし、30歳を過ぎての初歩からの外国語習得は、意欲だけでは困難なことをすぐに彼は思い知らされる。彼は山県有朋に宛てた手紙の中で、「唯一人窓辺でフランス語入門書を読んでいるが、何のことやら全く分からない。晩年になってから余計な意気込みだったかと今更後悔するしかない。遠くから笑ってください。」といった内容のことを書いている。
 この鬱屈とした状態は5カ月余り続いた。この状況を変えたのは、ロシアの亡命革命家メーチコフとの出会いであったが、話が長くなるのでこの辺でやめておく。
 ただ僕が感心したのは、見ず知らずの全く言葉の分からない土地に、半年間も明日が見えない状況にありながら、厚遇が約束されている日本に帰ろうとはしなかったことである。
 妻となった山川捨松の留学生活もドラマだが、その波瀾に満ちた留学経験では、大山巌も決して負けてはいない。
 「歳の差カップルのロミオとジュリエット」が結ばれた裏には、大山巌のこんな性格に、捨松が惹かれたことがあったのではないかと、僕は思う。

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