『近代編前期5 憲法制定と初期議会』


(P.106〜107)

4 憲法の制定 
 年表形式でまとめてみました。
 1883年、憲法を勉強するためにヨーロッパへ行っていた伊藤博文が帰国。師事したのは「ウィーン大学シュタイン」と「ベルリン大学グナイスト」。
 1884年、上院(いわゆる貴族院)を構成するために華族令を出し、5つの爵位を設けた。
 そして、1885年。太政官制を廃止し、内閣制度が発足した。初代総理大臣はもちろん伊藤博文。これにより、行政府と宮中の区別(宮中・府中の別)が明確となった。
 1887年から、憲法起草開始。起草担当者は、全部覚えないと意味がない。「ヒロンのミヨケンタマン」→「伊藤文・上毅・伊東巳代治・金子堅太郎・レル」。
1888年。枢密院発足(8.8.8.蜂が3つで吸う蜜イン)。天皇臨席のもと憲法審議。初代議長は伊藤博文。憲法発布ののちは、枢密院は天皇の最高諮問機関となった。同じ年、山県有朋とドイツ人モッセの尽力で、市制・町村制が公布され、地方制度が整備される。
 そして、「いや(18)、(89)手だ帝国憲法」→「1889年=大日本帝国憲法発布」。首相黒田清隆。彼の超然内閣声明は、史料でも確認する。憲法の内容は、欽定憲法であることをはじめ、いろいろな内容があるが、ポイントを2つだけ。「天皇大権の1つとして統帥権の独立がある」こと。「各国務大臣は個別に天皇を輔弼する→連帯責任ではない」こと。また、同時に「皇室典範」も出されたが、公布されていない。衆議院議員選挙法の有資格者の「直接国税15円以上収める25歳以上の男子」という規定は、高校入試の問題でも出たぐらい基本。

5 諸法典の整備 
 目玉はやはり「民法典論争」。フランスボアソナードが中心となり、「断行派=梅謙次郎 ⇔ 延期派=穂積八束」。特に穂積八束は「民法出て忠孝亡ぶ」という言葉からも問われる。これと商法の中心がドイツ人のロエスレル(憲法起草にもあたった)であることも知っておきたい。

6 初期議会
 これは、本当に流れがわかってないと難しい。
 第一回帝国議会の時の首相山県有朋。つまり「最初=伊藤博文帝国憲法発布=黒田清隆第一議会=山県有朋」である。
 衆議院の構成(第一回総選挙の結果)は、300議席中、立憲自由党が第一党(130)、立憲改進党も40議席で、民党が過半数を占めていた。
 この時、「国境としての主権線」とともに「朝鮮を含む利益線」の防衛のための陸海軍増強を訴える山県首相に対して、民党は「民力休養・経費節減」を唱えて、軍事費重視の予算案通過に反対。記念すべきアジア初の議会を、いきなり解散させたくなかった政府は、植木枝盛自由党土佐派40人を買収して、予算を通過させた。これに怒った中江兆民が衆議院議員を辞めたことは有名である。
 松方正義を首相とする第二議会も、予算案を巡って対立。海軍大臣樺山資紀の蛮勇演説で紛糾し、議会は解散、第二回総選挙となった。この時、内務大臣品川弥二郎による流血の大選挙干渉があった。結果、民党は過半数を下回ることになったが、選挙干渉の責任問題で、議会運営の見通しの立たない松方内閣は第三議会終了後、総辞職した。松方辞職の後、伊藤博文は山県有朋に、総理を打診したが、山県は拒否。「誰が貧乏籤ひくか!」といったところだろう。伊藤は自らが内閣を組織、第2次伊藤内閣となる。
 とまあ、ここまでは分かる。ややこしいのはここからだ。
 第2次伊藤内閣のもと、第四議会では、自由党が内閣に接近して、与党化した(エピソード「自由党が伊藤内閣に協力した理由」へ)。またまた予算案で紛糾する議会に対して、和衷協同の詔=天皇の建艦詔勅(宮廷費を削るから、民党も政府に協力してやってくれ)が出され、予算案は通過した。これ以後、民党は政府との対決の手段を、予算審議から条約改正問題へ移すこととなる。
 第五議会では、与党化した自由党に対して、民党である立憲改進党に、品川弥二郎の率いる国民協会が接近した。品川は先の選挙で選挙干渉を行った内相だが、選挙後の松方内閣のふがいなさに嫌気がさして辞任していた。
 この国民協会と立憲改進党が条約改正問題で、政府を攻撃した。これを「対外硬派連合」という。この攻撃に対し、政府は議会を解散。第六議会は、開始とともに内閣弾劾上奏案可決、内閣は議会を解散、泥沼化かと思われた。(対外硬派連合の説明はこちら
 ところが、この年、日清戦争が始まる。大本営のおかれた広島で、開かれた第七議会は、満場一致で戦費予算を承認。ここに内閣と議会の全面対決は終了した。
 この、議会と内閣が激しく対立を繰り返した、第一議会から第六議会までを初期議会という。

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(2023.1.2 第五議会の記述を修正)