頂いた質問から(12)

『坂下門外の変の背景』

 2013年4月22日、石川県金沢市の高校3年生の女子生徒から、次のようなメールをもらった。
 ふっとした疑問なのだが、こういうことに関心を持つことが日本史学習をちょっとおもしろくするのだろうと考え、そのやりとりを紹介させてもらうことにした。
 KとMにはもちろん実名が入っているが、ここでは伏せさせてもらっている。
 

<いただいた質問>

はじめまして
私は石川県K高校3年のMというものです。
今日本史で幕末を勉強しているのですが、疑問に思う点が二つほどありますので質問させていただきます。

•坂下門外の変について
 安藤信正を襲撃したのは和宮降嫁=天皇家が徳川家に服従したことを意味するので尊王攘夷派の浪士が安藤を襲撃したという解釈であっていますか?

•生麦事件について
 島津久光は寺田屋事件で藩内の尊王攘夷派を弾圧して公武合体路線にしましたがそれの何ヶ月後かに生麦事件が起きました。
 これは攘夷としての行動なのか、それともただ単に藩主に対する無礼な行為に怒って起こしてしまった行動なのでしょうか?

お忙しいかと思いますが解答よろしくお願い致します。


<野澤からの返事>


Mさん、こんにちは。野澤道生です。
返事が遅くなってすみません。この4月から異動で単身赴任となったため、まだ部屋にネットがつながっていません。GWで自宅にもどって君のメールに気付きました。
質問の件について、ぼくの考えを記します。

>坂下門外の変について
 安藤信正を襲撃したのは和宮降嫁=天皇家が徳川家に服従したことを意味するので尊王攘夷派の浪士が安藤を襲撃したという解釈であっていますか?

 全体の解釈としてあっていると、ぼくは考えます。
 もちろん、元々和宮自身が大反対であったこと。孝明天皇も「先帝の娘であり異母妹である和宮の進退は、自分の意志のままにはできない。」として拒否していたことなどもあります。
 しかし一番大きかったことは、
世間で「降嫁は幕府が和宮を人質とすることが目的で、久我建通(和宮降嫁の推進派公卿)らは幕府より賄賂を受け、天皇をだまして幕府の計画を手助けしている」と噂されたことにあると思います

 今でも「嫁をもらう」という言葉があるように、夫が主分で妻が客分という意識があり、Mさんが言われる通り「和宮降嫁=天皇家が徳川家に服従したことを意味する」という解釈で正しいと考えます。ただし、実際には和宮が内親王という征夷大将軍より上の位であったため、嫁入りした和宮が主人、嫁を貰う家茂が客分という逆転した立場で婚礼が行われることとなりました。このことは後々まで、江戸城内で尾を引くこととなりました。

 なお、「
ハイパーガミー」という言葉があります。今では女性が格上の男と結婚すること(女性の願望)ととらえられていますが、本質は「男性の身分・地位は変わらず女性の立場が変わる婚姻」であり、古代では世界的に行われていた「服属した部族がその証として一族の女性を人質として差し出すこと。差し出された支配者側は、その女性を自分の妻としてよいこと。」が、これにあたると考えます(と言うかぼくは学生時代、そう習いました)。

 古代日本でも地方豪族が大王家に一族の娘を
采女として差しだし、奉仕させています。采女は献上された人物(大王家の人間)だけが肉体関係を結ぶことが出来ました。この代表例が壬申の乱で敗れた大友皇子の母親です。彼女は地方豪族が中大兄皇子に差し出した采女でした。

 この理論を持ち出すと、和宮降嫁はまさに天皇家が将軍家に一族の女性を人質として差し出したことになり、天皇家が将軍家に服属を誓った形となります。


>生麦事件について
 島津久光は寺田屋事件で藩内の尊王攘夷派を弾圧して公武合体路線にしましたがそれの何ヶ月後かに生麦事件が起きました。
 これは攘夷としての行動なのか、それともただ単に藩主に対する無礼な行為に怒って起こしてしまった行動なのでしょうか?

 ぼくは、後者(ただ単に藩主に対する無礼な行為に怒って起こしてしまった行動)だと考えます。
 その理由は、島津久光が朝廷の信頼を得たきっかけは、和宮降嫁の後、京都では尊王攘夷を唱える志士が各地から集まる事態となり、それに対して朝廷が島津久光に市中の警備を依頼したこと。そして久光がこれに応えたことです。
 これにより久光は勅使を得て、文久の改革に向かうわけですから、生麦事件に攘夷行動の意識があったとはぼくには思えません。

 なお、生麦事件の原因は、イギリス人が大名行列の意味を解さず行列を馬で横切ったなどと言われることがありますが、当時のイギリス人も大名行列を邪魔してはいけないことぐらい知っています。邪魔にならないように避けようとしたのだが、運悪く列を乱すことになったというのが真相のようで、あれは不幸な事故だった(結果として薩摩は開国派となるわけですから、不思議なものですが)と思います。

2013.5.3

<追記・訂正>

 いつもお世話になっている駿台の塚原哲也先生から、次のようなご指摘をいただきました。

塚原先生:幕府が和宮を人質とり廃帝を企てようとしている,というウワサが広がっていたとの話は、しばしば目にしますし、襲撃した人々はそのように解釈したのだと思います。
しかし、将軍家と天皇家の婚姻をご指摘の「ハイパーガミー」で理解するのが妥当なのかどうか、疑問です。
秀忠の娘和子の入内が将軍家の天皇家への服従を意味するものと解釈することになりませんか。それが14代家茂のころになると天皇家の将軍家への服従を意味するものへと逆に転換する。このように考えると,おかしな議論になりませんか?

野澤:日本に「ハイパーガミー」の概念があったことは、嵯峨天皇が藤原良房に娘の潔姫を与えるときに、臣下(源姓)に下した後、婚姻させたこと、また多くの皇女は伊勢神宮の斎宮になったことでも明らかだと思います。
その上で和子の件については以下のように考えます。
後水尾天皇が消極的であったにも関わらず、徳川将軍家の意向による入内であったことは、たとえ将軍が実質的な国王であったとしても、天皇と征夷大将軍という身分の差を考えれば、藤原摂関家が娘を入内させたのと同様に矛盾しない。藤原時代にも天皇にとって不本意な入内があったのと同様に、東夷の娘を迎えること=将軍家の権威付けに利用されることに対して天皇の反感はあっても、理論上は矛盾がないため受け入れざるを得なかった。しかし、天皇家が一族の女を差し出すことは、明らかに理論上もおかしい。
表向きは臣下である将軍家の娘和子が、天皇家に嫁ぐことは、将軍家の実益ともなり、ハイパーガミーの理論上も矛盾しないと考えます。
ただし、7代家継と皇女の婚約のときに新井白石が襲撃されなかったことと比べれば、尊王思想の広まりと時代の違いを考慮せざるをえないとは思います。   

 ここから、意見のやりとりが始まり、水戸学という独特の尊皇思想の影響や、この政略結婚に賛成であった
岩倉具視が、孝明天皇からの諮問に答える形で提出した上申書に、「幕府が和宮降嫁を求めるのは、幕府権威を粉飾する狙いであること。さらに今後政治的決定は朝廷が行い、その執行は幕府があたるという体制の構築をはかるべき」と述べていることなど、岩倉は、かなり現実主義者であり、彼自身はハイパーガミーの理論にとらわれず、この縁組みは朝廷権威高揚、政治権力回復の好機と捉えていたと考えられることなども交えて、話が進みました。

そして、結果として、次のような形で落ち着きました。

 
実行者たちは、岩倉の思惑や降嫁の条件(条約の破棄・攘夷決行)などは知らないまま(知っていたとしても理解しないまま)、世上に流布していた「政略結婚は幕府が条約勅許を獲得するための手段」という誤った噂を単純に信じて憤慨し、実行に及んだのであり、ハイパーガミーなど文化人類学上の理論などは考えてもなかった。

 
この結論にいたった(ぼくが白旗を揚げた)根拠は、塚原先生が示された実行者たちの「斬奸趣意書」です。

「此後必定皇妹を枢機として、外夷交易御免之勅諚を推て申下し候手段ニ可有之。其儀若し不相叶節は、窃ニ天子之御譲位を奉醸候心底ニて、既ニ和学者共へ申付、廃帝之古例を為調候始末。」「将軍家を不義に引入、万世之後迄、悪逆之御名を流し候様取計候所行」

 言っていることは、「
政略結婚は幕府が条約勅許を獲得するための手段であり、これでも条約勅許が実現しなかったら孝明天皇の廃位を企てている。」これは「将軍家を不義に引き入れ、(将軍家に)万世の後まで悪逆の汚名を着せることになる
 つまり、
将軍と和宮の結婚そのものについては、まったく触れられていない

 これでは、彼らにハイパーガミーの理論もあって憤慨したとはいえないと結論付けざると得ません。


 和宮降嫁の条件には、「条約の引き戻し(破棄)」があり、事実、条約が勅許されたとき和宮が、「攘夷の実行を条件に徳川家に嫁いだのに・・・」と言ったように、「政略結婚は幕府が条約勅許を獲得するための手段」というのは、全く根拠のない噂であった。
 岩倉が上申したように「幕府の目的は、失墜した幕府権威の粉飾」であり、「これは朝廷にとって実権を取り戻すチャンス」でもあったのだが、このことを実行者を含め、多くの者は知らなかったか、知っていても理解できなかった(納得しなかった)のであろう。その後、失脚した岩倉は命を狙われることになる。

 
今回のことは、ぼくが純粋な文献史学出身ではなく、テーマが民間信仰という民俗学分野であったため、民俗学や文化人類学の理論に引っ張られたのかもしれない。

 歴史上に残る大事件の背景が、高度な政治理論によるものではなく、全く根拠のない誤った噂を単純に信じた上での凶行であった
というのは、何となく歴史的事象が軽くなるようで悲しい感じがする。
 
 それに対して塚原先生が、
「誤った噂を単純に信じて憤慨し、実行に及ぶという事件は結構あるように思う。関東大震災に際しての朝鮮人虐殺は、憤慨ではないが、誤った噂を信じた上での凶行の典型であった。」と言われた。

 今、メディアリテラシーが言われるが、事実をしっかりと見抜く目というのは、道を誤らないためにいつの世でも大切なものなのだと改めて感じた。

 そして、ぼく自身いい勉強になったし、塚原先生とのやりとりは純粋に楽しかった。質問をくれたMさんに感謝している。

2013.5.6

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